Aa ↔ Aa

Lumière

 戦いが好きだ、と思った事は恐らく一度もない。
 けれども、物心ついた時からこの手にはいつも剣が握られていた。
 傭兵業を生業とする家に生まれたわたしは、戦うことしか知らなかったのだ。

 "シアルフィ公子の首を取ってこい。"
 傭兵としてのわたしが最後に与えられた任務はそれだった。
 わたしにとって傭兵業というものはただ日々の糧を得るためにやっていることであって、この仕事に対して特に誇りを持っているというわけでもなかったから、この命令が下された時には正直なところ、始まる前から失敗するような気しかしていなかった。
 それでも、この仕事は雇い主の命令が絶対なのだ。契約を結んだからには、投げ出すことは許されない。法外な違約金など払えるはずもないのだから。

 初めは、死ぬつもりなんて更々なかった。
 騎士団の力は圧倒的だったけれど、そんなのは最初から分かっていたことで、わたしは敵兵を討つことよりも撤退令が出るまで生き延びることに必死だった。ところが、こちら側の軍勢が壊滅的な状況に追い込まれていたのにもかかわらず、それはいつまでも発されることはなかった。後から知ったことだけれど、この時わたしたちは騎士団の力を量るための捨て駒にされていたのだった。
 これまでだ、と思ったのは、腕と足の腱を切られたとき。
 地面に倒れ込んだわたしをもう取るに足らないものと見なしたのか、敵兵はわたしを捨て置いて味方の援護へと向かっていった。
 命拾いしたと、普通なら喜ぶべきところだったのかもしれない。けれどもこの身体ではもう二度と剣を振るえないという事を分かってしまったわたしは、これからどうやって生きていけばいいのかを完全に見失っていたのだ。
 決断に、そう時間はかからなかったと思う。
 取り落とした剣を再び持ち上げるだけの力もその時にはもう残ってはいなくて、わたしは懐から短剣を取り出した。鋭く砥がれた刃を胸に突き立てることには、躊躇いなんて少しもなかった。
 けれどもそれが叶わなかったのは、自分の胸を貫くだけの力を失っていたからじゃない。
『待て!』
 突然、稲妻のような鋭い一閃が走って、わたしの手からは短剣だけが薙ぎ払われた。
 呆然としながら、見上げた先の蒼。
 そこにいたのはまさしく、討ち取ることを命じられたシグルド公子その人だった。
『……なぜ……?』
『……きみを助けたいと思った。他に理由が必要かい?』
 その時、彼がわたしに対して何を思ったのかは分からない。
 ただ、手を差し伸べてくる彼の姿はひどく眩しくて。それは今でも色褪せることなく、わたしの脳に焼き付いていた。


「シグルドさま」
 そのひとの膝元で、今のわたしは生きている。
「お茶を、」
「ああ。ナマエの淹れた茶は美味いからな。エスリンにも飲ませてやりたいくらいだ」
「……恐れ入ります」
 紅茶を淹れることにも、こうして褒められることにも未だに慣れない。
 他の侍女たちのように、愛想の良い微笑みを浮かべながら彼に答えることもきっと出来ていないのだろうと思う。
 それでも、戦うことしか知らなかったはずのわたしはここで生きていた。

 あのとき負った怪我は、日常生活を送る上での困難はそれほど置いていかなかった。ただ、戦うことはおろか走ることもままならない身体では、やはりもう戦場に立つことは許されなかったのだ。
 代わりに与えられた肩書きは何のことはない、使用人というものだった。
 城内の掃除に洗濯、庭の手入れ、それらをただこなすだけで、食事にも寝る場所にも不自由しない。常に殺伐とした環境の中で生きてきたわたしには、信じられないほど恵まれたものだった。そう思うと同時に、こうして温水に浸かってしまう事が怖くもあった。
 得られるものに見合うだけの働きが出来ているとは思えなかったからだ。拾った意味などなかったと、彼に思われるのではないかと。いつか放逐されてしまうのではないかと。そうなったら本当に、わたしは路頭に迷ってしまうから。あの時死なせてくれていれば、と思ったことだってあった。
 けれども彼はわたしを拾ったその手を離すことなく、わたしに居場所を与えて続けてくれたのだ。

「……すまない」
「……?」
「こんな事をさせるために、きみを助けたわけではなかったのだが」
 ――彼という人は、なんて優しいんだろう。
 そう思うのはこんな時だ。まるでわたしの心中を見透かしたかのように、こんなことを言う。
「一度は死んだ命です。どうかあなたのお好きなようにお使いください」
 どうして彼がわたしを救おうと思ったのか、それは今でもやはり分からない。
 結局彼はあれ以上の理由を話してはくれなかったから。
 それでも、確かにわたしは満たされつつあったのだ。何も出来ないことへの歯痒さは拭えないくせに、たとえば紅茶を淹れたとき、たとえば庭に花が咲いたとき、彼がわたしに向けてくれる、穏やかな笑みに。
「しかし、きみは」
「いいんです」
 この身体が今でも使い物になるのなら、あなたの盾になりたかった。
 人のために戦うこと、それが仕事だったはずなのに、彼に会って初めてわたしは心からそうしたいと思った。今となってはもう、その願いを叶えることは出来ないけれど。それでも。
「少しでもあなたのお役に立てること――それが、わたしの望みなんです」
 些細なことしか成し遂げられなくなったこの手でも、あなたの為に出来る全てのことをしよう。
 答えるように頷いてくれた優しい笑みの温かさを、手放せるはずなんてないから。