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resonance
視線の先には、一人で佇む少女の姿があった。
――天使のようだ、と。
自然と頭に浮かんできた言葉は、我ながらなんて陳腐なのだろうと思う。けれども彼女を形容するのには、これが一番相応しいような気がした。
たとえば、柔らかそうな髪。澄んだ円らな瞳、白い肌。
こうして少し離れた所から見ていても分かる、整った目鼻立ち。
誰にも隔てなく向けられる笑顔だとか、仲間を癒すためなら自らの危険も顧みずに戦場を駆け抜ける芯の強さだとか。不安も恐怖も表に出すまいとしながらも、本当は杖を握りしめる力のあまり、その手が余計に色を失くしてしまうことを知っている。
庇護欲を掻き立てられる瞬間は、挙げればきりがない。
壊れてしまうのではないか、と思うのは自分の勝手な妄念かもしれないけれども。それでも彼女はどこか儚げで、守ってやりたいと思うような――……
「スカサハ」
「うわっ!」
突然背後から掛けられた声に、つい間抜けな声が出る。
驚いて振り向くと、そこにいたのは双子の妹だった。
「……なんだラクチェか。いきなり声をかけないでくれよ、驚くだろ」
「スカサハがぼんやり突っ立ってたからよ。……何をしてるの?」
「別に……」
ナマエに目を奪われていただなんて、馬鹿正直に言えるわけがない。
……が、目聡いラクチェはすぐに、自分の後方にいる人物を視界に捉えてしまった。そうして大げさなため息を吐かれる。ラクチェは自分の気持ちを知っていた。この双子の妹には、隠しごとなど出来やしないのだ。
「……まだなの?」
ラクチェが言うのはもちろん、まだ進展がないのか、という意味だった。
その声には若干の呆れと苛立ちが含まれていたが、自分としては今のままでいいような気もしているのだ。特別な関係でなくたって、ナマエを守ることは出来る。……触れたくないと言えば、それは嘘になってしまうけれども。
「まだって、別に俺はどうにかなりたいって思ってるわけじゃ……」
「ああもう、じれったい!」
声に含まれた苛立ちは、今度は若干どころではなかった。
――まずい。そう思ったのと、妹が次の言葉を発したのとは、ほとんど同時だった。
「ナマエ! ちょっといいかしら!」
良く通る大きな声に、ナマエがこちらを振り向いた。
慌てる自分にはお構いなしといった体で、手を振って合図をするラクチェに思わず抗議の声が出る。ナマエは既にこちらに向かって歩き出していた。
「ばっ……ラクチェ! 何してくれるんだよ!」
「だって、スカサハったらいつまでもそんな風なんだもの」
「ほっといてくれよ、おまえには関係ないだろ?!」
「うるさいわね、もういい加減はっきりさせなさい! 男でしょう!」
言い合いをしているうちに、とうとうナマエはすぐ側にまでやって来てしまう。
何も知らない彼女は、きょとんとした表情を浮かべてラクチェの顔を見た。
「ラクチェ、どうしたの?」
「スカサハがね、あなたに話があるんだって」
勝手なことを言うなと口を開きかけたが、キッと睨まれてつい言葉を飲み込んでしまった。戦場では安心して背中を預けられる強気な妹だけれど、こういう時ばかりはどうにも参ってしまう。
「大事なことみたいだからわたしは外すけれど、聞いてあげてくれる?」
「うん、分かった。ラクチェも後でお話ししようね」
「ええ、またね」
ナマエにはにっこりとした笑みを。
そしてこちらには鋭い一瞥を投げて釘を刺し、ラクチェは去っていった。
――これはどうしたものだろう。
普段なら、ナマエと二人で話すこと自体には何ら問題ない。けれどもこんな風に、あからさまなお膳立てをされてしまうとどうにも駄目だった。必要以上に彼女のことを意識してしまって、気持ちが落ち着かない。
「それで、なぁに? 話って」
「いや、その、」
間を持たせる言葉さえも、なかなか浮かんできてはくれなかった。
妹はお節介にも「大事なこと」だなんて言い残して行ったが、それが告白の類だと気付いている様子はナマエにはない。こんな状況から、“そういう”雰囲気にまで持っていくのは至難の業だと思われた。この手の沙汰に不慣れな自分にとっては尚のことそうだ。
「?」
「だから、ええと、」
「あ」
「え?」
何かに気が付いたようなナマエの声に、一向にはかどらない言葉探しは一時中断される。
つい聞き返すと、彼女の視線は自分の腕へと落ちていた。
「腕、怪我してる」
視線の先を見遣ると、腕には確かに小さな切り傷があって、僅かばかり血が滲んでいた。
恐らく訓練の時に出来たのだろうが、自分でも気がつかなかったくらいだ。普段の戦いを考えれば、怪我のうちにも入らないようなものである。
「ああ、こんなの全然大した事ないよ。ほっといても治るさ」
「だめよ、止血くらいちゃんとしなくちゃ」
言いながら、ナマエはハンカチを取り出した。
せっかく真っ白なそれが汚れてしまう、と言う間もなく、彼女は慣れた手つきで傷口を縛るように巻き始める。
――好き、なんだよなあ。
こんなとき、特にそう思ってしまうのだ。細やかな心遣い、彼女の優しさに触れるとき。温い愛しさが、横溢してしまいそうになる。
多少気恥しさを覚えながらもそんなことをしみじみと実感していると、突然彼女の手の動きがぴたりと止められた。
「ナマエ?」
指先を追っていた視線を正面に戻せば、ナマエは目を瞠ってこちらを見ている。何かにひどく驚いたかのような表情だった。
「す、スカサハ、あの、」
「うん?」
「いま言ったことって、その……」
「え? 俺、何か変なこと言っ……」
…………まさか。
行き当った一つの可能性に、血の気が引いていく思いがした。
先程の「あれ」を、自分は声に出してしまっていたのだろうか。――出してしまっていたのだろう。驚きの表情は変わらぬまま、ナマエの頬は紅に染まっていく。
「ち、違うんだ!」
そうして、思わず口走った。
顔がとんでもなく熱い。全身の血液が今にも沸騰してしまいそうだ。
「さっきのはつい、口が滑って……!」
まさかうっかり声にしてしまうほど自分が間抜けだとは思わなかったが。
どうやって誤魔化せばいいのだろう。もっともらしい言い訳なんて自分に出てくるはずもない。ただでさえこんな状態だというのに、目の前の少女が今度は落胆したかのように眉を寄せるものだから、いよいよどうしたらいいのか分からなくなった。
「……違う、の……?」
「いや、違わないけど!」
弾かれたように言葉を返すも、あまりに格好がつかない己に頭を抱えたくなった。いったい自分は、考えるより先に口が出るような種類の人間だっただろうか。
こんなつもりではなかったのに。
妹の言ったように、男のくせにいつまでもはっきりしない、周りにまでじれったいと思わせてしまうような調子だからいけないのかもしれない。ああ情けない、本当に何という有様なのだ――……
「……スカサハ、本当?」
縋るような声が、後ろ向きな思考を停止させた。
逸らしたばかりの視線を恐る恐る戻す。腕の位置にあった彼女の手はいつの間にか自分の手へと添えられていて、弱々しい指先に、きゅう、と握り込まれた。見上げてくる大きな双眸が、落ち着かなさそうに揺れている。
――不安と、そしてそれ以上の期待とが、その瞳の中に見えたような気がした。
「あのね、わたし、本当ならその、」
それは、単に自身の願望がそう思わせたに過ぎなかったのかもしれない。けれども不思議と確信めいた予感がそこには伴われていた。先程までの後悔も落胆も情けなさも羞恥も、全て消え失せてしまうほどの強い予感が。
心臓がうるさく喚き出す。ごくり、と我知らず喉が鳴った。瞬きすら、もう出来ない。
「わたしも、って、言ってもいい……?」
大きく頷いた瞬間、この世に降りた天使が真っすぐに飛びこんできた。