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Auf die Hande kust die Achtung,
昇級の話が出た。
下位部隊である第15軍団に所属しているにも関わらず、そこでの功績には上層部の目に留まるものがあったらしい。もっと上位の部隊へ転属しないか、という話は以前から内々に持ちかけられていたのだが、今回いよいよ正式な書面で以て通達が来たのだ。
――もっとも、これは自分に宛てられたものではないのだけれど。
「……ふん、」
平民の生まれである自分には、実力で勝ち上がっていく以外には方法がなかった。だから、それによって得た第15軍団団長という今の立場には誇りを持っている。家柄だけの能無しよりも、自分の方が上なのだという自負もあった。
けれども、それ以上を望むことは決して叶わない。
いくら実力があろうと、華々しい出自がなければ今以上の地位は認められないのだ。そうして結局自分は、いつまでも能無し貴族の盾に甘んじている。自分は“彼女”とは違うのだから。
これから上位部隊へ配属されようとしている副官のナマエは、良家の令嬢なのだ。もちろん実力の方だって折り紙つきだ。だから彼女には道がある。高貴で優秀な彼女を邪魔するものは何もない。何も、ない。軍団長と言えども所詮は平民の自分には、彼女を引きとめられるものなど一つとして有りはしないのだ。
本当は、行って欲しくなどない。
優秀な部下を失いたくないのは上官として当然のことだけれど、それだけが理由だけではなかった。
もしも自分が貴族だったなら、彼女と共に上を目指し続けることが出来たかもしれないのに。或いは彼女が平民だったなら、いつまでも自分の側に置いておくことが出来たかもしれないのに。そんなことばかりが頭を過ぎていく。どうにもならないことだった。自分には絶対に手の届かない場所へ、彼女は行こうとしているのだ。
「イリオス様、ご在室でしょうか?」
小さなノックの音が聞こえた後で、ドアの向こうから名を呼ばれた。ナマエの声だった。恐らく別れの挨拶でも言いに来たのだろう。返事をする気にはどうにもなれず、無言のままでこちらからドアを開けた。そこに立っていた彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに姿勢を正して礼をする。如才のない仕草だった。自分はと言えばやはり何も言えないままで、部屋の中へ入るようにと顎だけで指示をした。
「……あの、イリオス様?」
明らかに様子のおかしい自分に、ナマエは戸惑いを隠せないようだった。
静かにドアを閉め、改めて彼女の顔を見る。
生まれの貴賤が外見に出る、とはよく言ったものだ。もちろんそれは全てにおいて当てはまるというわけではないが、ナマエに関してはそうだと言わざるを得なかった。気品を感じさせる顔立ちは、一目見ただけでも名のある一家の血筋だと分かる。
……ああ、そうだ。彼女は自分の下にいていいような人間ではない。ただ、今までが間違っていただけなのだ。
「……良かったな」
「……?」
不可解そうに眉尻を下げた表情を最後に、目の前の副官から視線を逸らす。
これ以上は、顔を見ていられる気がしなかった。
「良かったじゃないか、昇進が決まって。これでこんな下っ端軍団ともおさらば出来るってわけだ」
ナマエが息を呑んだのが分かった。
それが彼女の何の感情を表しているのかまでは分からなかったけれど。もしかしたら図星だったのかもしれない。そう思ったら、もう言葉は止まらなかった。
「そりゃあそうだよな。大体、いいとこのお嬢さんがこんなところに配属されたことがおかしかったんだもんな。……なあ、出世する気分はどうだ? 聞かせてくれよ。平民の俺に、そいつはもう分からないだろうからな」
このままずっと、ここで貴族の盾として使われていくだけの自分とは違う。彼女には輝かしい道がある。自分にはどうしたって届きはしない、手を伸ばすことも叶わない道が。彼女にとっては今の場所など単なる通過点に過ぎない。この隊にいたことだって、そのうちに忘れてしまうだろう。いつまでも動くことのできない自分だけ、賤しい自分だけがここに取り残されて、そうして。
「お前も清々しただろ? こんなところで働かされて災難だったな。平民の下につくなんて、今までさぞ不愉快だっ」
「イリオス様!!」
言葉を遮ったのは、今までに聞いたことが無いほどの大声だった。悲鳴と言った方が近いかもしれない。
反射的に、あらぬ方向に遣っていた視線を彼女に向ける。ナマエも自身の出した声の大きさに些か驚いたらしかったが、数秒かけて息を整えると、それからゆっくりと口を開いた。
「……何か勘違いをしていらっしゃるようですが、」
――わたしには第15軍団を離れるつもりなんてありません。
彼女はそう続けた。静かな、それでいてはっきりとした口調だった。
「何……だと……?」
「ここを離れるつもりはないと申し上げたのです」
ナマエは繰り返す。
第15軍団を離れるつもりはないと。これからもここにいるのだと。それの意味するところは一つしかなかった。
「……まさか、あの話を断ったって言うのか!?」
「はい。そのご報告のために、今ここに参ったんですから」
「っお前、どうかしてるんじゃないのか……!」
――信じられない。
口をついて出たその言葉に抗うように、彼女はきっとした視線を真っ直ぐにぶつけてきた。何か強い意志のようなものを感じさせるその目に、思わず一瞬怯んでしまう。思い返してみれば、僅かとは言え彼女が反抗的な態度を見せたのは初めてだった。
「……それはわたしの台詞です」
「何……?」
「イリオス様はおっしゃいました。わたしがここにいるのは間違いだと。自分の下で働くのは不愉快だったろうと」
最後の方は声が震えていた。
言葉を選ぶのも苦しいと言った様子で、それでも視線が逸らされることはない。
「あなたは、わたしが今まで嫌々お仕えしていたと思っていたんですか?」
気付けば、非難と懇願の入り混じったような表情に変わっていた。
「これまでわたしが微力を尽くしてきたのも、全てあなたのお役に立ちたいと願っていたからです。わたしはあなたの努力や、あなたの戦いぶりを尊敬していました。イリオス様のお生まれがどうということなど、一度も考えたことはありません。それなのに……」
ナマエは言葉を切る。
次の句を口にすべきか迷っているようにも見えた。一度だけ、彼女の喉元が小さく動いたのが分かる。
「……そのように思われていただなんて心外です」
言い終わるのと同時に悲痛な表情は伏せられた。
それから、彼女は静かに身を翻した。失礼します。ひどく小さな声が聞こえた。彼女はここを離れるつもりはないと言った。けれども今この部屋を出て行ってしまったならば、そのまま二度と戻ってこないような気がして、
「待てっ!」
ドアに手をかけようとしたその手首を掴んだ。
振り向いたその瞳は今にも泣き出しそうに思われた。今更に、罪悪感が束になって突き刺さる。
「っ……その……」
言葉が追い付かない。掴んだ手首にばかり、つい力を込めてしまう。
「……悪かった……俺は……お前が離れていくと思って……それで苛々して……」
「……」
「さっきのは違う……つい自棄になって言ってしまっただけだ……そんな風に思ってたわけじゃない……」
しどろもどろな調子が情けなかった。言い訳がましく聞こえてしまったかもしれない。それでも本心には違いなかった。分かっている。彼女はいつだって自分に応えてくれた。いつだって自分に忠実でいてくれた。浅ましい劣等感が爆発してしまったのは、異動の話が他でもなくナマエに向けられたものだったからだ。彼女でなければ、ここまで揺るがされることなどきっと無かった。
「だから、その――」
ずっとここに居てくれ。
自分の発した言葉に気恥ずかしさを覚えるよりも先、悲しみに歪んでいた顔に花の綻ぶような笑みが広がった。
「喜んで」
顔だけをこちらに向けていた体勢から、身体ごと向き直る。
放すことの出来なかった手首は、ナマエの反対の手によってやんわりと解かれた。だが、今度は彼女の手の方が自分のそれを緩く拘束した。そのまま彼女はゆっくりと膝を折る。その仕草のひとつにしても、やはり貴族ならではの優雅さを伴っていたのだが、自分の手を取ったまま目の前で跪いた彼女の姿にそんなことはすぐにどうでも良くなった。
「……ナマエ、」
名を呼べば、澄んだ双眸が優しく細められる。
その穏やかな表情が、自分に向けられた感情の全てを語っていた。気が昂っていたとはいえ、あんなことを言ってしまった自分が馬鹿だった。彼女が離れていくと疑った自分が馬鹿だったのだ。
――なぜなら、彼女はこんなにも。
「……あなた以外にお仕えする気なんて、ないんですから」
手の甲に、やわらかな温度が押し当てられた。