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Sel'ge Liebe auf den Mund;

 心臓の音がひどく煩い。
 自身の置かれた状況を表現するならば、窮地としか言い様がなかった。戦争の間でさえ、ここまで追い詰められたことはなかったように思う。
 夕日の差す廊下には人影一つ見当たらない。
 だからこそ、自分をここまで連れて来た男は人の寄らないこの場所を選んだのだろう。この先にあるのは霊安室だけだった。戦争の終わった今では、ほとんど誰もここに近付くことはないのだ。
「ナマエ」
 男の様子はおかしかった。
 つい先程までは、アレンと三人でいつものように訓練をしていたはずなのだ。
 それが終わった後に、話したい事があるから来てくれと言われた。自分は何の疑いもなく頷いて、男に追従して。けれども彼の向かった先は、サロンでも自身に宛がわれた一室でもなかった。どこに行くのかと疑問を覚えた時には、もう今の状況になっていた。
 背はぴたりと壁に付いている。
 顔の両脇には男の腕がつかれていて、逃げ出すことは不可能であるように思われた。
 かつて、これほどまでに彼と接近したことなどはなかった。男の顔が間近にあって、嫌でも意識せざるを得ない。この状況になってからどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、なんとなく視線を逸らしたら負けだという気がして。何を考えているのか分からないその目をなんとか見返していたのだけれども、もうそれにも限界が近付いていた。
「――!」
 退路を断っていた右手が頬に添えられる。いつの間にか、男は手袋を外していたらしい。直接触れた温度にぞくりと背中が粟立った。
 そのまま端整な顔がゆっくりと近付いてくる。もう目を開けてはいられなかった。身体は金縛りにでもあったかのように動かない。
「……っ、」
 唇に触れた温度はすぐに離れた。零れ落ちた吐息に空気が震える。
 恐る恐る瞼を開いてみれば、目の前の男は相変わらず何を考えているのか分からない顔をしていた。
「……なん、で」
 ――いったい何のつもりなのか。
 ついさっきまで、本当にさっきまではただの同僚で、友人だったはずなのだ。それが突然こんな風に追い詰められて、口づけられて。しかもその相手が寡黙であまり感情を表に出さないランスなのだから、尚更思考は混乱していく。
「……分からないのか?」
「だってこんな、急に、っ」
「急などではない」
 男の顔が、僅かに歪んだ気がした。
「おれはずっとこうしたかった」
 頬に触れていた手が離れ、今度は腕を掴まれた。
 そのまま強く引かれてしまえば、男の表情の変化に気を取られていた自分の身体は簡単にその胸元へ倒れこんでしまう。
 背に両腕を廻され、強く抱きしめられた。ずっとこうしたかった。男は確かにそう言った。今までそんな様子など微塵も見せなかったというのに、いきなりこんな風に情熱をぶつけられてはどうしていいのか分からない。
「……聞こえるか?」
 何が、と問う前に分かった。
 男の心音が聞こえる。
 恐らくは自分のそれと同じくらい速く拍動しているのではないかと思われた。
「……どうしたら、分かってくれる」
「……え……?」
「おれがどれだけお前を――」
 途中で曖昧に言葉を投げ捨てながら、男は廻した両腕を僅かに弛緩させる。
 そうして少しだけ離れた身体、再び絡んだ視線の奥。ナマエはそこに熱情を見た気がした。男の顔が再び近付く。
「ランス、待って……!」
「駄目だ」
 こんな顔は見たことがない。
 いつも冷静で、滅多なことが無ければ表情も動かさないような男が、こんなにも必死に縋るような目を自分に向けているだなんて。
「ベルンとの戦いも終わった。魔竜も救った。ロイ様もリリーナ様と結ばれたんだ。これ以上何を待つ必要がある?」
 ――ナマエ。
 熱っぽく名を呼ばれて、胸の奥の方が締め付けられるように痛んだ。
 呼吸の仕方すら、忘れてしまいそうなほどに。
「おれはもう十分待ったんだ」
 何も変わることなんてないと思っていた。
 いつまでも仲間のままで、ただそれだけで良いと思っていた。
 ――けれど今は、知ってしまったから。
「好きだ」
 泣きたくなるようなキスをされて、もうどうしようもない。思わず抱き返した腕は、二度と離すことが出来ないような気がした。