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Freundschaft auf die offne Stirn,

「……悪いな、助かるぜ」
 布の貼られた右頬に手をやりながら、目の前の男は溜息混じりの声を出した。
 不特定多数の女にちょっかいを出しすぎるあまり、方々から恨みを買ったこの男が自分の所へ逃げてくることはよくあるけれど、今日ほどひどく頬を腫らせてきたのは初めてだった。誰々にぶたれた、などと愚痴を聞かせてくるのは日常茶飯事だが、今回は本人の言が大げさに聞こえないくらい、本当に痛そうに見えたのだ。とりあえずは薬を塗ってから氷で冷やした布を貼ってやった。それでも何もしないよりは痛みも紛れるだろう。こんな目に遭ってもなお、本人に懲りた調子は全く無さそうだったのだけれど。
「あー痛ぇ。何も本気でぶつこたないと思わねえか?」
「自業自得でしょ」
「いいや、あのビンタは割に合わねぇな。ったく、あのお嬢さんときたら二回目なんだぜ? しかもまた泣かれたしよ」
「……それって、ナンナ様に何かしたってこと?」
 そうだけど。
 しれっとしてそう言う男に溜息が出た。そもそも解放軍に入ったきっかけは、彼女に泣かれて殴られたからだということはホメロス本人から聞いた話だが、そんな相手にまた手を出すとは。そうでなくても、彼女にはリーフ王子という相手がいるのだ。今はまだ彼らはそういう関係ではないけれど、彼女の態度を見ていればその気持ちが向いている先は誰にでも分かる。まあ、この男にそんなことは最初から関係ないのかもしれないが。
「……で?」
「あ?」
「何したのよ」
「それがよ、ちょっとキスしただけなんだぜ? 信じられねぇ!」
「……信じられないのはあんたの神経だわ」
 言いながら、二度目の溜息を吐く。
 別に大したことではないとうそぶくその態度には呆れる他ない。男がそういう行為に関して相当の手練だということを差し引いてもだ。
 彼女には王子がいる、ということも確かにそうだが、それよりも怖い相手の存在を失念しているのではないだろうか。
「……ねぇホメロス。あんた、ナンナ様のお父さんがフィン様だってこと分かってるわけ?」
 彼は娘を誰より大切にしている。
 どこの馬の骨とも分からない男に手を出されたとなれば、ただでは済まさないだろう。ああいう寡黙なタイプこそ、怒った時にはどうなるか分からないものなのだ。
「次に手出したら、あの勇者の槍で串刺しにされるかもね」
「うっ……」
 さすがの男も少しは危険を感じたのかもしれない。

 静かになったのをいいことに、ナマエは手当てに使った道具を片付け始める。男に背を向ける格好で薬やら布やらを箱に仕舞っていると、彼は突然衣擦れの音を立ててすぐ背後まで近寄ってきた。何事かと思って振り返る。
「ちょっと、何?」
「おまえの方はどうなんだよ」
 一瞬静かになったと思ったのに、またこの調子だ。
 それにしても男の発言には言葉が足りない。なんとなく良い予感がしなかったが、何の話かと聞き返した。男は楽しそうに親指を立ててみせる。
「男だよ男。ま、そんな気配なんか少しもなさそうだけどな」
 やはり碌なことではなかった。
 男の気配がないだなんて大きなお世話だ。否定できないところが若干悔しいような気もするが、女遊びにばかり興じているこの男と一緒にされては困る。
「わたしは真面目に働いてるの! あんたとは違うんだからね」
「ふーん」
 聞いているのかいないのか。
 男は適当な返事をしながら、ずい、と顔を近づけてくる。
「な、なによ、」
「よく見りゃ可愛い顔してんじゃねぇか」
「はぁ!? いきなり何言っ」
「なぁナマエ」
 急に名を呼ばれて思わずたじろいでしまった。
 にやり。隙だらけになった自分の目の前で、男は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「試してみるか?」
「いらない!」
 反射的に拒否の言葉を返して後ずさりをしてみるも、相手は同じだけ、いやそれ以上の距離を詰めてくるのだから意味がない。
「まあそう言うなって」
「ちょっ、来ないでよ……!」
 空気が変わったのはそれからだった。
 男の顔からは今までの面白がるような笑みが消え、それきり黙ってしまう。珍しすぎるその態度に、ナマエは完全に狼狽していた。これでは変な風に意識してしまうではないか。どうしてくれるのだ。
 あまり見ることのない男の真顔は整っているという他なかった。これでは、軟派な性格を知っていてなお、数多くの女が彼との火遊びに乗ってしまうのも道理かもしれない。――ずるい。この男は、自分を魅せる術を心得ている。
「やだ、ってば」
 既に男と自分との距離は無いに等しかった。
 どうしようもなくて、ナマエはきつく目を閉じる。これから起こるであろうことを考えると、嫌でも心臓がうるさくなる。実力行使で回避という道ももちろんあったはずだけれど、身体は動かなかった。出来ないのか、したくないのか、もしかすると満更でもないのか。何でもいいから早く済ませてほしい。これ以上こんな空気の中にいたら、どうにかなってしまいそうだ。
「……、……?」
 しかし、覚悟した感触はいつまで経ってもそこにはやって来なかった。
 ぬるい温度を覚えたのは、唇ではなく額の上。
 いったい何だったのだろうか。鼓動は少しずつ治まりはじめ、拍子抜けとも安堵とも言えるようなよく分からない感覚が頭の中に広がっていく。喉の奥で小さく笑う声が聞こえた。張りつめた空気は既に弛緩している。ナマエは恐る恐る瞼を持ち上げた。そうしたら。
「期待しただろ?」
 ――してやったり。
 そう言わんばかりの、面白いほど満足げな表情が目の前に広がっていた。先程までの緊迫感は、もう欠片もない。
「しっかしなぁ、あんな可愛い反応してくれるとは思わなかったぜ」
「……」
「これならやっぱり口にしとけば良かっ」
 その時、何かがぷつりと切れる音がした。
「こ……の、バカ!!!」
 悲しいかな、治療を施したはずの自分に手によって、男は左頬にまでも攻撃を受けることになるのだった。
 男の腫れ上がった頬と、自分の頬と。より紅く染まっていたのは、果たしてどちらの方だったか。