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Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht,
扉を叩く音が、静まり返った廊下にこだまする。
これでもう三度目のノックになるはずなのに、部屋の主からの返事は未だに得られなかった。
「……エリウッド様?」
不在なのだろうか。いや、そんなはずはない。聞いたところの彼の予定によれば、今日は一日中執務とのことだったのだ。階下にいた衛兵も、彼が出かけるところは見ていないと言っていた。たとえ出掛けたにしても、誰かしら護衛をつけるはずだろう。けれど先程までいた訓練所では、見知った顔は皆揃っていたように思われた。
やはり、主は確かに在室のはずなのだ。だとすれば何かがあったのか――。まさかとは思いながらも、一度浮かんだ不安は簡単に拭い去れるものではない。不躾だということは十分承知の上で、ナマエは許可を得ないまま目の前の扉を開けた。
「失礼致します、」
そうして目に飛び込んできたのは、机に伏した主君の姿だった。
倒れたのではないかと思って一瞬冷やりとしたが、慌てて傍まで駆け寄ると規則正しい寝息が聞こえてくる。足音に反応する気配が全くなかったあたり、どうやらぐっすりと眠っているらしい。寝顔はひどく安らかだった。
「……お疲れなんですね」
ソファの上にあったブランケットを広げ、眠る主君の肩へと掛ける。
疲れているのも当然だった。
あの戦いが終わってから一年、フェレ侯爵となった彼に課せられたものは途方もなく大きかった。けれど彼は元来の生真面目な性格から、その全てに真っ直ぐ向き合っているのだ。いつだって「大丈夫だよ」と言って、自分の身体を顧みることをしない。戦いの間も、彼のそういうところはずっと目にし続けてきた。ご無理をなさらないでください、と何度言ったかは知れない。結局それが聞き入れられることはなかったのだが。
それでも、自分にとって戦いの間はまだ良かったのだ。彼を護るために、常に傍にいることが出来たのだから。けれども今は違う。もちろん自分は騎士であるのだから、彼の護衛というのも任務の一つではある。だが、今は彼自身が剣を取って戦わなければいけないことなどはほとんどない。彼は領主としての務めを果たさなければならないのだ。結局、あの時のように四六時中傍にいることは叶わなくなってしまった。
――支えてあげたい。
剣を以て護るだけでなく、全てを。人には見せようとしない彼の痛みも苦しみも。
そう願っては、違いすぎる身分に溜息を吐くばかりなのだけれども。いっそ誰か伴侶を見つけてくれれば、こんな不毛な想いにも諦めがついただろうに。マーカスやマリナスは早くご結婚をといって彼を苦笑させているが、彼自身は未だに誰も選ぼうとはしなかった。
もう一度整った寝顔に目を向ける。
瞳は閉じられたまま、ふと彼の身体が小さく身じろいだ。
「……ナマエ……」
「!? エリウッド様!?」
「……、……」
心臓を掴まれたかのような心地がした。
しかし彼はそれ以上言葉を発することはなく、代わりにまた穏やかな寝息が聞こえてくる。自分はと言えばその場に固まったまましばらく動けずにいた。今のが寝言だったということはまず間違いないだろうが、だからこそ尚更信じられなかった。驚きと喜びと、僅かな苦しさとが混濁する。
「……どんな夢を見ていらっしゃるんですか……」
ずるい、と思った。
彼は誰にも等しく優しかった。そんな彼だからこそ、惹かれずにはいられなかった。
けれどそれは、誰にも気取られることのないよう心の内に秘めるだけのはずだったのに。
「……エリウッド様」
こんな風に穏やかな顔をして、夢の中で自分の名を呼ぶなんて。
抑圧していた感情が熱を伴ってざわめきだす。ひどく甘やかに。彼が自分を呼んだことに、恐らく意味などはないのだろう。それでも良かった。どこか心が締め付けられるような感じがしたけれど、それでも嬉しかった。
何も知らない主君は、相変わらず気持ち良さそうに眠っている。
――やはり、ずるい。
目を覚ましたなら、何の夢を見ていたのか尋ねてしまおうか――そう思いかけてナマエは首を振る。それを聞いてどうするというのだ。自分はいったい何を期待しているというのだ。本当にどうしようもない。苦笑したつもりだったのに、零れた吐息は思いのほか熱を孕んでいた。
馬鹿みたいだ。
寝言で名を呼ばれたくらいで、何をこんなに舞い上がっている。内なる声は確かにそう告げてくる。けれども勝っていたのは、抑えきれずに横溢する愛しさの方だった。
「……あなたが……悪いんですよ……?」
眠れる瞼に、ただ一度の口づけが降りた。