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融けてしまえばいい

 静けさに包まれた夜の空気を、風を切る音が揺るがせた。
 つい今までは自分一人しかいなかった、野営地からほんの僅かに離れただけの何もないこの場所に、大きな影が静かに降り立つ。顔を見ずとも、それが誰なのかはすぐに分かった。両肩に翼を携えた、こんな大柄な影の持ち主などは一人しか知らない。
「……ティバーン様」
 振り向きながら呟く。
 月を背に立っている男の表情は見えなかった。なんとなく、その口元に笑みが閃いたような気はしたのだけれども。
「……誰かが抜け出すような気配がしたんでな。付いて来て正解だった」
 草を踏む足音と共に、大きな影がだんだんと近付いてくる。
 もしも男が初めから歩いてここまで来ていたならば、もう少し早くその存在に気付けていたのだろうが。
 数秒の後、隣で足を止めた男を見上げる。やはりその顔には笑みが浮かんでいた。どこか含みのある、不敵な笑みが。
「どうした? こんな時間に出歩くなんざ、危ねえだろうが」
 台詞の割に、口調は全く咎めるような風ではない。それどころか面白がってさえいるようだった。
 視線を合わせるように、男は身を屈める。鷹の目がゆっくりと細められるのを見て、反射的に生唾を飲み込んでしまった。目を逸らしたいのにそれが出来ない。男の視線は、いつだって自分を落ち着かなくさせるのだ。
 夜目が利かないとは言っていたけれど、こんなに距離が近ければ表情くらいは捉えられるだろう。おまけに今夜は月が明るかった。鷹の目に映っている自分の表情は果たして、困惑か、それとも。

「ナマエ」
 息が詰まった。
 恐らく名を呼ばれたのは初めてだった。
「なあ、ナマエ」
「っ、なん、」
「“半獣”は怖いか?」
 声を低めて、男は問う。半獣は怖いか。この軍に肯定を返す者などいないと、分かっているはずなのに。
 男の言葉を理解するや否や、ナマエは目を見開いて思い切り首を振った。男は愉しそうに口角を上げる。半獣などという言葉を使ったのもおそらく皮肉などではない。ただ単純に、自分の反応を見たかった、それだけなのだろう。この男が一体何を考えているのか、ナマエにはまるで分からなかった。
「震えてんじゃねえか」
「違っ、それ、は」
 男は喉の奥で笑った。気圧されている、その自覚は嫌というほどあった。
 ラグズを怖いと思ったことなどない。ラグズだから怖いのではない。それと同じように、男が一国の王という身分であるから畏怖しているのでもない。
「ちがうの、こわいのは、」
 ――怖いのは。
 男に溺れてしまいそうな、自分自身だった。

 惹かれている事実など否定できようもない。少しでも気を抜けば、全てを奪われてしまいそうなくらいに。
 けれども心まで攫われたのなら、もう戻ることなど出来ないような気がした。魅入られてしまったら最後なのだと、どこかで警鐘が鳴るのがずっと聞こえていた。種族の違いだとか、王であるからだとか、確かにそれも最後の一線を引き続ける理由の一部にはなりはしたけれど、それよりも。
 想いを全て明け渡してしまえば、二度と逃れることは出来ない。そんな気がしたから。

「……なあ、ベオクのお嬢さんよ、」
 囁く声は低い。
 頼りない感覚の中でひとつ確かに言えるのは、最後の砦が既に陥落しつつあるということだった。
「っ、ティバーン、様……!」
 男の大きな手が頬に触れて、背中がぞくりと震える。
 射抜くような瞳からはやはり目を逸らすことが出来ないままに、殊更ゆっくりと言葉を告がれてしまえば、あとは感覚の全てが侵されていくのをただ待っているしか出来ない。鷹はこんなにも狡猾だった。鴉にも引けを取らないほどに。
「……そろそろ俺も、抑えが利かねえんだが?」
 呼吸すら奪われてしまったならば、最後に残ったのは触れた唇の温度だった。