Aa ↔ Aa
chain
――水が欲しい。
そんな場違いな欲求が脳裏に浮かんだ。唾を飲み込んだつもりが、空気だけが小さく嚥下されていく。口の中が渇いて仕方がなかった。このまま言葉すら、枯れてしまいそうだと思うほどに。
射抜くような視線はただただ自分に熱を孕ませるばかりだった。心臓の音がひどくうるさい。重く、ゆっくりとした鼓動が痛いくらいに響いている。それは緊張の所為でも、動揺の所為でもないのだけれど。ただ見つめられるだけで、胸の奥が締め付けられるように痛んで呼吸すらままならなくなる。
やっとのことで吐き出した息は情けないくらいに震えていた。
腰に廻された右手と、頬を捉える左手と。迸る熱の全てを共有できるくらい側にいてもなお、届かないような感覚を払拭できずにいる。
「……ったく、何て面してんだ」
「だ、って」
焦燥感に苛まれてどうにも落ち着かない。浅い呼吸を繰り返すことしか出来ないままに、触れている箇所から思考が溶け流れていくのをナマエは感じていた。
苦しいのは酸素の足りない身体ではなかったけれど。
「……泣かせるつもりなんざ、ねえんだがな」
「泣いて、ません」
「……ナマエ、」
この男はいつもそうだ。困ったら自分の名を呼んで、唇を塞いでしまえばいいと思っている。
言葉だけ攫っていくくらいなら、いっそ全てを奪って欲しかったのに。
「――今は何もかも忘れてろ」
……それが出来るのなら、どんなにか楽だろう。
男と自分とを阻むものはどうしたって大きすぎた。たとい種の壁を越えられたとしても、それぞれを流れる時の速さまでは変えられないのだから。
――どうして、惹かれ合ってしまったの。
二人が同じ時を歩むことなど出来ないというのに。
どんなに想っていても、どんなに想われていても、共に居られる時間などは男にとってのほんの一部に過ぎないのだ。
初めは、側に居られるだけで良かったはずだった。
けれどもそうして共に過ごせば過ごすほどに、欲望は止まることを知らずに膨れ上がっていった。今がいつまでも続けばいいのにと、何度願ったことだろう。叶うことなどないと分かっていても、その願いを断ち切ることはできなかった。
未来のことを考えると心が張り裂けそうになる。ラグズとベオクの混血の者たちが羨ましかった。不名誉な名で呼ばれ、迫害さえ受けてきた彼らがどれほど辛い思いをしてきたのか。それを慮ってもなお、そんな思考を振り払えない自身に嫌悪感を覚えて、それがまたナマエを苦しめた。今と変わらぬ姿のままの男と、一人老いていく自分。やがて自分が天寿を全うしても、彼は生き続けるのだ。気が遠くなるほどの時間。永い永い月日の間に、彼は自分のことを忘れてしまうかもしれない。そうしていつかは別の誰かを愛するかもしれない。その見えない影が、妬ましくてたまらなかった。
愛しくて仕方がなくて。
ただそれだけのはずなのに。
「ティバーンさま、」
間近の瞳の中に、情けない顔をした自分を見た。
男は口許を歪め、自嘲するように笑う。
「……ざまぁねぇな。俺はお前に何一つ与えてやれねえ」
腰に廻された腕にひときわ力が込められた。
僅かな隙間さえ許さないとでも言うかのようにきつく抱かれて、それでも痛みは形を変えて身体の奥深い部分に直接刺さる。
ナマエは目を閉じて、男の背に手を廻した。言葉にしなくても、怖いくらいに全てが伝わり過ぎる。永遠が望めないなら、せめて今だけは笑っていようと思うのに。それが出来ない自分への苛立ちさえも、男は汲み取ってしまうから。
「けどな、それでも」
――何処へも行かせる気なんざねえんだよ。
耳元で空気を震わせた苦しげな声に、身体がどうしようもなく疼いた。
腕の力が僅かに緩められ、顔を上げた瞬間に再び影が落ちてくる。触れる間際に囁かれた声に、今度は目を閉じていられない。
「愛してる」
感覚に直接流れ込んでくる言葉以上の何かだけが、確かに男と自分とを繋げていた。