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誘惑

 ――ぎしり。
 二人分の重さを受け止めて、安いベッドのスプリングが大きく軋んだ。
 真上から聞こえる押し殺したような笑い声に鼓膜を震わされる。身体はまだほとんど触れてもいないのに、背中がぞくりとした。
「……どうした? 緊張してんのか?」
 言葉を返せなければ、目を合わせることも出来ずにいた。
 ランプの火明かりは落とされたばかり。真夜中の暗い部屋で頼りになるのは窓から差し込む月明かりだけだったが、それだけでも十分すぎるほどだった。自分からは、男の表情が恐ろしいほどよく見えていたのだ。細められた双眸も、愉しそうに吊り上がった口元も。
 そうだったからこそ、今は注がれる視線から逃れるようにして男から顔を逸らしている。
 夜目が利かないという男の方が、どれだけ自分の表情を捉えられているのかは分からないけれども。
「逃げる算段でも立ててるんじゃねえだろうな。無駄だと思うぜ?」
「別にそういうわけじゃ……っ!」
 的外れな言葉につい男を見返してしまって、途端に後悔する。
 その顔にはひときわ深い笑みが浮かんでいた。
 再び顔を背けようとすれば、大きな手に頬を捕まえられてそれは容易く阻止されてしまう。
「……おっと。そいつはもう許されんぞ」
 捕食者の瞳が自分から外されることはない。
 輪郭を辿るように、ゆるく線を描きながら下へ下へと伝っていく手、ついには指先が唇を滑った。
 熱い息の逃げ場さえ失われて、頼りないこの心臓は果たして明日まで持つのだろうか。

 禁忌を犯そうとしている背徳感は確かにあった。
 しかしそれよりも期待の方が遥かに大きいなど、自身も大概即物的に出来ているのかもしれない。
 畏怖と欲心は同居していた。
 知るのが怖くありながらも、知りたいと思う心を抑えられないのだ。
 天空を制する王たるこの男が、恐らく他の誰にも見せないであろう姿を。

「なあ」
 男は器用に片腕で身体を支えたまま、だらりと投げ出されていたナマエの腕を取った。
 普段はローブに隠されていて日を浴びることも少ないその内側は、月明かりのせいか余計に色を失くして見えていた。
「……ベオクってのは、貧弱なもんだよな」
 掴んだ前腕を一周して、男の指はなお余りある。
 体格差は甚だしかった。この男がラグズの中でもかなり大柄な方に分類されるのに対して、魔道を専門とする自分は意識的に身体を鍛えているということもなく、軍の中ではひ弱な方に入る。
「こんな身体で戦えてるなんざ――まるで奇跡だ」
 掴まれた腕が男の口許まで持ち上げられたかと思えば、小さな痛みが走った。
 手首に痕を付けられたのだ。
「……そんな所に、」
「一々気にしてたらキリがねえぞ? これだけで済ますつもりはねえからな」
 言うが早いか、男は再びナマエの腕をシーツに沈めた。
 間を開けず、重みが圧し掛かってくる。熱をはらんだ肌が密着して、隙間を埋め尽くすようにじわりじわりと体重が預けられる。
 ――苦しかった。それは物理的な痛みより、もっと違う別の。
「ナマエ」
「っ、」
 吐息混じりの囁き声に呼ばれて、思わず目を閉じた。
 喉の奥で笑う低い声は悩ましい響きを持っているのに、震える瞼に落とされた口づけは信じられないほど優しい。手首を縫い付けていた男の手はいつの間にか上に滑りあがっていて、自由を奪われた指が男のそれと結び合わさった。
「……しかし、俺もえらく嵌ったもんだ」
 耳を侵す低音。
 剥きだしの肌に纏わりつく下肢。
 瞼を離れた唇が、今度は首筋に痕を残す。
 硬質な髪が与えてくる刺激は、擽りと呼ぶには僅かばかり強い。
「……後悔してますか?」
 小さく、男に問いかける。
 首筋から顔が離されるのと同時に、ナマエも目を開いた。
「……何だって?」
「こんな風にならなきゃ良かった、って」
 おかしくなりそうな位に執着を見せつけてくれるこの男には、こんな言葉では下手な挑発にすらなっていないかもしれない。
 けれど、その顔に笑みが閃いたかと思えば、次の瞬間には唇を塞がれていた。
 無遠慮に差し込まれた熱が暴れ、ナマエの舌を絡めて離さない。吸い上げられる度に響く濡れた音が耳を蝕み、甘い痺れが脳髄を蕩かせていく。縋りつきたいのに身体の自由が利かない、そのもどかしさに身を焦がされた。頭の中はぐらぐらと煮えたぎって、もう何も考えられない。
「有り得ねえな」
 触れる吐息が、至上の囁きを落とす。
「好きで溺れてんだ、分かるだろ?」
 男の表情は未だ余裕を残している。
 息も絶え絶えになりながら、ナマエはその名を声に乗せた。
「ティバ……ン、さま、」
 溺れる味に魅せられているのは、こちらも同じこと。
 もう戻れない所まで来てしまったというのなら、このまま全てを食い尽してくれればいい。
「……さてと、そろそろお喋りは終いにしようぜ」
 呼吸も思考も何もかもを奪わせて、全てを男に委ねる。
 待ち切れねえんだろ、と煽る言葉に抗う意志などは、もう残ってはいなかった。