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見果てぬ空

 びり、と布の破れる嫌な音がした。
 視線をローブの裾の方に向けてみれば、薄布からは細長く尖った枝が突き出している。ああ、またやってしまった。何度目かの溜め息を吐きながら、しかしこのままでは身動きも取れないのだから、仕方がなくナマエは力任せに足を動かした。今度はよりいっそう残念な音を立てて、裾がびりびりと裂ける。何だか不格好なスリットのようになってしまった。脚がすうすうして落ち着かない。
 袖から何から、自分のローブは既に見るも無残なことになっていた。
 木登りをするにはどうしたって不適切な服装であることくらい分かっている。だが、あいにく自分はこういったタイプの装備しか持っていないのだった。体力なしの自分では、剣士の身につけるような軽鎧でさえ重くて仕方がないのだ。靴にしたって大概間違っていたが、やはりローブに合わせたブーツの他は持ち合わせていなかった。装備を改善したところでこの高木を簡単に制覇出来るのか、と言われれば、首は傾いでしまうのだけれども。
 朝日が昇る前に、天辺まで辿りつけるだろうか。
 こんなに悪戦苦闘することにあると分かっていたなら、前もって誰かに教えを請うておくべきだったかもしれない。木登りを教えてくれだなんて頼まれた方も困るだろうが、たとえばあの、心優しい弓使いの少年ならばきっと聞いてくれたのではないかと思う。
 早朝に一人で野営地を離れ、どうしたって不適切な格好をして辺りで一番高い木に挑んでいる自分は、他人の目があったならまったくもって奇異に映っていることだろう。頭がおかしくなったのではと思われるかもしれない。目撃者の立場であれば、自分自身でさえそう思うだろう。
 けれども、こんな突飛な行動に駆り立てられるのには、理由があった。
 そして自分は、どうしてもそれを遂げたかったのだ。
 たとえば頂上まで到達したらそこに何かがあるだとか、誰かに褒められるだとか、そういうことではない。ただ自分がそうしたいというだけの、本当に自己満足でしかないけれど。
 この高い木の上から世界を見渡せたなら、彼に近付けるような気がしたから。
「……うそ、」
 しかし、現実はそう簡単には行かないらしい。
 自分の片足が持ち上がらなくなっていることに、ナマエは気が付いた。
 足掛かりになる枝を選びながら左に右にと動きながら登っていたせいか、破れた布の先が方々に伸びた枝葉と複雑に絡んでしまっている。
 一段上に登ろうとして、もう一方の足を高い枝に乗せたところでの硬直だったため、体勢は不安定極まりない。何とか枝を振りほどこうと枷のついた足を揺すってみれば、ぼきりと嫌な音がして枝の一部が地面へと落下していった。背筋を冷たい汗が流れる。動かない片足を支えている枝は、少々心許なかったらしい。……これは相当まずいことになった。先を登ることも不可能ならば、いつ折れるとも知れない細枝に上の足を戻すことも出来なさそうだ。進退窮まったとは、まさにこのことか。

「おい」
「!?」
 出し抜けに声を掛けられ、心臓が止まるかと思った次の瞬間には視界が反転していた。
 驚きのあまり足を滑らせた上に幹から手を離してしまったのだったが、もちろんそんなことを分析をしている余裕はなかった。声なき悲鳴、大きく揺れる枝葉、それから布の裂ける嫌な音。自分に出来ることはと言えば、来たる衝撃に備えてきつく目を閉じることだけだった。
「……?」
 しかし、覚悟していたそれは存外軽いものだった。
 数秒経ってようやく、声の主に受け止められたのだと分かる。おそるおそる、瞼を押し上げてみた。
「……ティバーンさま……」
 鷹の王が、渋い顔をして自分を見下ろしている。
「……何してんだ」
 呆れ果てたとでも言いたげな様子だが、足を滑らせたのは急に声を掛けてきたからではないか。内心非難がましい気持ちになる。もちろん助けてくれたこの男に向かってそんなことは言えないし、こういう形ではあれ結果的に窮地を脱したことに関しては、素直に安堵していた。あのままでは遅かれ早かれ枝は折れていただろうし、彼に受け止めてもらえていなければ怪我は免れなかっただろうから。
「聞いてんのか?」
「いや、その、ちょっと登ってみたくて……」
 答えれば、いっそう眉を顰められた。
「……一体何から言やあいいんだよ」
 言いてえことがありすぎてかなわねえ、という台詞ももっともだ。心配させてしまったことの負い目もあって、素直に謝罪を口にすることにした。
「……ごめんなさい」
「とりあえず登ったはいい。下りる時にはどうする気だったんだ?」
「あ」
 そう言えば小枝をぼきぼき折りながら登っていたような気がするが、下りる時のことは全く頭になかった。
「……ったく、知恵の民も形無しじゃねえか」
 盛大に溜め息を吐かれる。
 今度ばかりは本当に情けなくて仕方がなかった。穴があったら入りたいような気分だったが、男は自分を抱えたまま下ろしてくれる気配もない。
「……あの、ティバーンさま?」
「この木の上に宝でもあんのか?」
「え?」
「何だって登ってみたいなんて思った」
 呆れや苛立ちは、もうなかった。
 見下ろしてくる表情は、自分の好きなそれの一つに変わっている。
「……見たかったから」
「ああ?」
「見たかったんです。あなたの目に映っているのと、同じ世界が」
 身分や立場以上の、絶対的な違い。
 それは、この男が自分の想いを受け入れてくれた日から分かっていたことだった。彼がラグズであり、自分がベオクであるということはどうしたって変わることのない事実だ。
 同じ時を歩み続けられないのなら、せめて同じものを見たかった。
 同じ世界を、彼の目線で見たかった。
 だから、この高い木の上から世界を見渡せたなら、彼に近付けるような気がしたのだ。
「……あのなあ」
 くだらないと思うかもしれない。
 それでも、自分にとっては意味のあることだったから。

「だったらもっと手っ取り早い方法があるだろうが」
 え、とこぼれ落ちた声は、風を切る翼の音にかき消される。
 抱き直されたその直後には、自分を支える大きな体躯ごと宙に浮いていた。
 目線は瞬く間に上昇して、視界が嘘のように開けていく。布の切れ端をぶら下げた枝を越え、あれほど難儀していた高木の天辺も軽々と越え、さらにその上へ。
「……どうだ?」
 息を呑んだ。
 地平線の向こうから昇ってくる朝日。淡く色付き始めた空。眼下に広がる森は、ひどく小さく映る。
 これが、彼の世界なのだ。
 いつも彼の見ている世界を、自分は今こうして。
「なあナマエ」
 耳のすぐそばに、声が降ってくる。
「共に見ることの方に、意味があるとは思わねえか?」
 ――彼の言う通りだった。
 そうだ、いつだって距離など感じさせないでくれるのは、この男自身だったではないか。
 こうしてすぐ傍らで、同じものを共に見られること。それだけで、こんなにも満たされる。
「……そんなことを言うような方でしたか? あなたは」
 照れ隠しに軽口を叩いてみれば、男の口元は緩く綻んだ。
「誰かさんに感化されちまったようでな」
 ところで、と。
 穏やかな笑みが、ふと含みのありげなそれに変わる。
「随分と挑発的な格好じゃねえか」
 言われてようやく、自らの纏った服の悲惨さを思い出した。
 慌てて目をやれば、あちこち破けたローブはもうぼろ着も同然だった。筋肉のない貧弱な脚はほとんど剥き出しになっていて、腿の上のなかなかきわどいところまで露出している。
「同じ世界を見たい、さっきそう言ったよな?」
 その表情から言葉の意味するところを理解した途端に、顔が熱くなった。
「ティ、ティバーンさま!! まだ朝ですよ……!?」
「ほう。そいつは夜ならいいってことか?」
「そういう意味じゃ……!」
 空中にいるということも忘れて、思わず手足をばたばたと動かしてしまう。脚の辺りが余計に大変なことになってしまったのには、この時はまだ気付けなかった。
「こら、暴れんじゃねえ。でなけりゃ……無理やり黙らせちまうぜ」
 男がそれを言い終えたときにはもう、大人しくする暇など与えられないまま黙らせられることになる。
 いつもの、全てを食い尽くすようなそれとは違って、触れた温度はひどく優しかった。
「ナマエ」
 ゆっくりと瞼を開いたその先で、男は小さく笑ってみせる。
「お前が望むんなら、何度だって一緒に飛んでやるさ」
 どこへでも、な。
 最後にそんな意味ありげな言葉を添えることも、彼は忘れなかったのだけれども。