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春遠からじ

「こんにちはトレックさん! 今日も眠たそうですね!」
 気の抜けるような大欠伸と、気だるそうに目元をこする仕草。
 重そうな瞼を押し上げてこちらに緩い視線を投げたその主から、お、と小さな声が落ち、次いで片手が軽く持ち上げられる。相変わらずののんびりとした様子に、知らず笑みがこぼれた。
「やあ、あんたは……えーと」
「ナマエです!」
「あぁそうそう」
 お決まりの応酬はやはり今日も変わりない。一度や二度や三度なら数えられもしようが、このやり取りをした回数をナマエはもう覚えていなかった。
 ここまで来ると最早ある種の様式美に似たものを感じないでもないのだが、あくまで彼は素でやっているのであり、決してふざけているわけではない。自分としてもまた、彼と顔を合わせる度に毎回名を名乗っているというこの現状のままで満足するわけにはいかないのだ。
 本人いわく「他人の名前を忘れることが趣味」であるらしいこの男に自身のそれを覚えてもらうことを目下の目標に据え、ナマエは時間を見つけては彼の元に足を運んでいた。

 トレックがリキア同盟軍の指揮下に入ったのはこの戦いが始まって比較的初期の頃であったが、ナマエが彼と行動を共にすることが増えたのはそれからしばらく後のことだ。
 祖国を出て間もないうちは、フェレ騎士であるナマエの任務は主に同郷のアレンやランスたちと連携して行われるものが中心だった。しかし、次第に軍が所帯を膨らませていき、兵員の数も多様性も増えていくのにつれて、元々の所属にとらわれない柔軟な隊編成が取られるようになったのである。そこでナマエと組むことになったのが、この男トレックだった。
 正直なところ、初めて軍師からそれを命じられた時には懸念を抱かずにはいられなかった。というのは、その頃にはもう「イリア騎士団のトレックは寝ながら剣をふるっている」という噂がナマエの耳にも届いていたのだ。仮にも名に聞こえたイリア傭兵騎士団の一員であるのだし、さすがにその話には多少なりとも誇張が入っているのであろうとは思ったが、そんな噂が立つような男に自らの背中など任せられたものではない。実際に顔を合わせてみても相手はどうにも緊張感のない人物で、これは気を引き締めてかからねばなるまいと、ナマエは内心で気合を入れ直したものだった。
 しかしながら、いざ戦いが始まると、ナマエはそれが無用の不安であったと思い知らされることになる。
 やはり寝ながら剣をふるっているというのは当てにならない噂であったが、それだけではなかった。彼の武器捌きには無駄な動きがなく、剣や槍をまるで自らの手のごとく自然に扱う。構えは一見隙だらけのようでそうではなく、油断して突っ込んで来た敵が次々に返り討ちに遭う様をナマエは何度も目にした。ひょっとするとこれは高度な戦術であり、間抜けを装っている彼は実のところ相当に頭の切れる人物なのではないか――と考え、それはわざとなのかと尋ねたことがあったがその時には心底不思議そうに「何が?」と返された。ある意味ではものすごい才能を秘めた人物なのかもしれない。それ以上に優れていると感じたのは馬術の方で、この男には馬の心が分かるのではないかと埒のないことを考えてしまうほどだった。
 そうして何度か戦いを共にするうちに、この男と組むのは悪くない、そう思うどころか居心地の良ささえ覚えている自分に気が付いてしまったのである。
 たとえばぴったりと息の合った連携が出来るだとかそういう具合ではないのだが、彼の独特の戦い方は側にいてやりづらさを感じるようなものではなく、決してナマエの戦いの呼吸を乱さない。戦いの外でも、彼の纏う雰囲気や穏やかな人となりにはずいぶんと気がほぐれた。
 これまで、覇気に富んだ熱血漢の同僚や常に冷静沈着な同僚、また年を重ねてなお気概を失わない老将から学ぶことはいくつもあったけれど、のほほんとした雰囲気に流されてつい肩の力を抜いてしまうような相手はトレックが初めてだった。

「あんたとはよく会うから、顔は覚えたんだけどなあ」
 顔はと言うが、名前以外のことに関しては案外それなりに記憶してくれている。いつだったか、腹が減ったなあとこぼしていた彼に携帯していた乾パンと干し果実を差し出したことがあったのだが、次に会った時に彼は、この間の礼と称して焼き菓子を手渡してくれたのだった。この時には彼の律儀な面を知って、すっかり好感を抱いたものである。
「顔まで忘れられたら泣きますよ、わたし。まあ、名前覚えてもらえるまではしつこく通うつもりですから」
 覚悟しておいてくださいとの言葉に、トレックはぽかんとして首を傾げた。
「へえ、そりゃまたなんで?」
「トレックさんに覚えて欲しいからですよ!」
「だからなんで?」
「それは……」
 恐らく何の他意もないであろう質問に、つい口を噤んでしまう。
 戦友なのだから、名前も覚えてもらえないのは少し悲しい。そんな至極当たり前の理由があるではないか、ナマエ自身もそう思っていることに変わりはないのだから、そうと言えば良かったのだ――とは思ってみるものの、どうも自分の中にそれ以上の理由があるらしいことを自覚しているだけに上手くいかない。そして何だか妙な気分になってしまった。
「まあなんでもいいけど……あんたもめんどくさいことするよなぁ」
「……もしかして、迷惑ですか?」
「いや、べつにそんなことは。おれなんてだいたいいつも、寝てるかぼーっとしてるかのどっちかだし」
「本当は寝てたいんじゃ?」
 ナマエとしても、別にトレックから疎ましがられているとは思っていない。だから、ついこういうことを尋ねてしまうのは単純に、この男から少しでも確かなものを引き出してみたい、という自分のわがままなのだろう。
「うーん……寝るのはいつでもできるけど、あんたと話すのはあんたがいる時だけだから」
 おれは構わないよ。
 人を喜ばせようと無理に大げさなことを言ったりしない、取り繕ったりもしない、そんな彼だからこそ、簡素な言葉には疑いようのない真実が映る。自分との会話もそれほど悪くはないと感じてくれているのが分かって、ナマエは思わず顔を綻ばせた。
 たった一言で、彼はこんなにも心を満たしてくれるのだ。


「トレックさん! おはようございます!」
 この日の行軍では、彼と共に行動をするようにと命じられていた。
 本人もその指示は受けているはずであり、さすがに集合場所を忘れたりはしないだろうから、わざわざ迎えに行く必要なんて本当はないのだけれども。自分が好きでやっているのだから構いはしない、彼の言い回しを少し借りるとすれば“減るもんじゃなし”、とでもいったところだ。
 いつもと同じ気の抜けるような大欠伸と、気だるそうに目をこする仕草。重そうな瞼を押し上げて向けられる視線の緩さ、相変わらずののんびりとした様子。そして。
「お、あんたは確か……ナ……」
「!!」
 ひとつだけが、いつもと違った。
「ナ……」
「……」
「……えーと」
「ナマエです!」
「そうだった」
 お決まりの応酬は、この日初めて進歩を見せた。
 たかが一音、されど一音。彼は確かに覚えていてくれたのだ。今日は記念日ということにしよう、後で手帳に書いておかなければ。他人に聞かせれば大げさだと笑われてしまいそうだが、ナマエにとってはそれほどの一大事だったのである。いっそ感涙に咽びたいくらいの心境で、抑えきれない歓喜が身を震わせた。
「朝からご機嫌だけど……なんかいいことでもあった?」
「今ありましたよ! ちょっとだけど、トレックさんがわたしの名前覚えててくれたんですもん!」
「……そんなことで?」
「そんなことなんかじゃないです!」
 不思議そうに首を傾げた彼の中の疑問も、今はまだすぐに消えてしまってもいい。たった一歩の前進が自分にとってどれだけ意味のあることだったのか、今はまだ知らなくたっていい。
 けれどもいつか、最後までこの名を呼んで。
 そして、それからもっと先――。
「ふうん。よく分かんないけど、あんたうれしそうだし……おれももうちょっと頑張ってみるかなあ」
「!! はい! ぜひ!!」
 陽だまりのようなこの想いに、気付いてくれる日が来たら。