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ただひとつの明

 自分の荒い呼吸音が、ひどく鬱陶しい。
 身体には既に限界が来ている。全ての感覚は不確かで、それでも必死に足を動かした。
 石だらけの川辺はなんと走りにくいのだろう。躓いてつんのめりそうになるのを、なんとか踏ん張って堪える。転んでしまえば、二度と立ち上がれる気がしなかった。そうなったら終わりだ。早く逃げ切らなければ。
「いたぞ、脱走兵だ! 捕らえよ!」
 背後から聞こえた声に、背中から汗が噴き出した。
 こんなことになるのなら、魔道だけでなく身体の方も真面目に鍛えておけばよかった。体力の無さが今更恨めしい。
 幾つもの足音が勢いよくこちらを追ってくる。対して自分の足は縺れんばかりに頼りない。なけなしの魔力で追っ手を阻もうと杖を振り上げようとしたところで、右腕が動かないことに気がついた。もうどこを負傷しているのかも分からない。
 掛け声とともに放たれた、激しい衝撃波が背を打った。ナマエは為すすべもなく地面に倒れ込む。涙が視界を滲ませたが、こんなところで諦めるわけにはいかなかった。左腕をついてなんとか上半身を起こし、全身を走る痛みに歯を食いしばって耐えながら立ち上がろうとする。がくがくと震える膝を叱咤し、よろけながらもようやく二本の足が地に立ったとき、飛んできたナイフがその足を切り裂いた。
 今度こそ、ここまでなのか。
 再び崩れ落ちた身体は終焉を感じていた。
 最後にあの人の顔だけでも見たかったのに、でも、ああ、もう走れない。
 じゃりじゃりと砂礫を踏む足音がゆっくり近づいてくる。
 こんな自分が相手では、もう急ぐ必要もないのだろう。霞む視界に、魔道兵の赤い爪先が映った。囲まれたのだ。
 首を掴まれ、放り投げるようにして仰向けにさせられた。顔の確認でもするつもりなのだろうか。そんなことをしても意味はないのに。責任を問われるはずの上官は、もうジャナムにはいない。
 意識は遠ざかろうとしていた。自然と瞼が降りてくるのを受け入れる。この世への未練は有り余るほどだ。けれどもここで潰えてしまうのならば、もうどうしようもなかった。うまく働かなくなってきた思考を放り投げる。聞き慣れた声がしたのは、その時だった。
「俺の部下に何をする!!」
 視界を闇に閉ざしていても分かるほどの閃光が走った。
 それから悲鳴が聞こえたような気がするが、もうそれ以上の感覚は当てにはならない。
 ふと、身に覚えたふわりとした浮遊感。それが現実のものなのか、或いは魂だとかそういうものが肉体から遊離したために感じたものなのかは分からない。
 けれどもそれは、何故だかどこか懐かしい気がして。一度、ただ一度だけ、重い瞼を押し上げた。
「ナマエ! しっかりしろ!」
 意識を手放す直前に見たのは、目の眩むような赤、だった。


 ***


 気が付いたら、見覚えのないベッドの上に横たわっていた。
 目に入ったのは、石造りの天井に石造りの壁。空間を仕切る真っ白なカーテン。部屋には薬品独特のにおいが漂っている。どうやら医務室のような場所で寝かされているらしかった。辺りを見回そうと身体を捩ってみると、途端に走る痛みに呻き声が出た。
 視覚も嗅覚も痛覚も、ひどくはっきりしている。
 あの時、てっきり自分は死んだものだと思っていたのだけれど。
 誰が助けてくれたのだろう。記憶を辿ってみるけれど、背後から攻撃を受けて地に伏してからのことはひどく曖昧だった。けれど、もうこれまでかと思われたそのとき、誰かが来てくれたような気はしたのだ。その時に名前を呼ばれたような覚えもあるのだが、やはりよくは分からなかった。
「良かった、気がついたんですね」
 カーテンが開くのと同時に、安心したような声が掛かる。
 現れたのが看護師だということは、着ていた白衣からすぐに分かった。向けられた優しい微笑みが、どこだか分からない場所にいる不安を和らげてくれる。
「……ここは……?」
「フィルヴェーク団のお城ですよ」
「フィルヴェーク団……!?」
 思わず瞠目した。
 自分はまさにそこを目指して、帝国から脱走してきたのではなかったか。
 九死に一生を得た上に、救われた先が自身の目的地だったなんて。奇跡とは本当にあるものなのか。
「……まったく、人間ばかり運び込みおって」
 ドアの開かれる音がして、誰かがそう呟きながら部屋に入って来た。
「先生、患者さんの意識が戻ってるんですから滅多なこと言わないでください」
 看護師が諌めるように言う間も、足音はこちらに近付いてきていた。先生と呼ばれたジャナム人の風貌の男がカーテンから顔を出す。人間ばかり、という言葉は多少引っかかったが、この際気にしないことにした。
「ふむ、気がついたかね」
「あの、あなたが……?」
「ああそうだ。人間の診察はまったくもってつまらんが――」
「先生!」
「……失礼。動けるまでに時間はかかるが、身体機能に問題は残るまい。安心したまえ」
 あまり医者らしくは見えないこの男だったが、その実かなりの名医であることはなんとなく分かる。
「ありがとうございます、ご迷惑をおかけします」
「いいんですよ、それが仕事ですから」
 先程と同じ優しい笑みで、看護師がそう言ってくれた。
「さて、君には安静を言い渡したい。……が、困ったことにこっちにも、放っておくと病気になりかねないのが一名ほどいるのだよ。通しても構わんかね?」
「……? はい、」
 その言葉の意味はよく分からなかったが、とりあえず頷いてみる。
 お大事にと言い残して出て行った彼らは、カーテンを閉めてはいかなかった。
 そうして、入れ違いになるようにして部屋に入ってきた人物を目に捉えた瞬間。無意識に、その名を呟いていた。
「……アスアド様……」
 落ち着かないような、心ここにあらずといった表情。
 小さな声が届いたのか、目が合ったと思った途端に血相を変えてもの凄い勢いで走ってくる。そのままベッドのすぐ傍らまで来ると、がし、と肩を掴まれた。
「この馬鹿!!」
 開口一番、馬鹿と言われた。
 久しぶりに顔を見られた嬉しさを堪能する間もなく、言葉を畳み掛けられる。
「俺がどれだけ心配したと思ってるんだ!!」
「あ、あの、」
「お前、もう少しで死ぬところだったんだぞ!?」
「アスアド様、」
「もしあのまま誰も来なかったら、本当に……!」
「分かったから落ち着いて、」
「どうしてあんなに無茶をしたんだ!」
「アスアド様、ちょっ、…………痛いんですけど!」
 つい声を上げてしまった。
 心配してくれたということは痛いほど分かる。が、実際問題本当に痛かったのだ。
 おそらく本人は無意識にやっているのだろうが、肩はかなりの力で掴まれていた。さすがに満身創痍の身体には響く。
「!? わ、悪い! 大丈夫か!?」
 慌ててぱっと手を離し、今度はあたふたとし始めた。
 この、様子の変わりよう。
 先ほど医者が言っていた「放っておくと病気になりかねない」の意味が、ここへ来てよく分かった。
 仮にも自分は安静を言い渡された身分なのだから、この男も面会に際して「患者に負担をかけるな」などといった類のことは言われていたのだろう。それにしたってこの調子である。
 義に厚くて、生真面目で一本気で、部下思いの上官。
 最後に会った時からあまりにも変わっていないその姿に、つい、くすりと笑みがこぼれた。
「ナマエ……?」
 笑うと身体が痛いのに、こみ上がってくるそれは止まらない。終いには涙まで出てきそうになった。
 感動の再会だなんて、ひっくり返っても言えない。
 それでも、何よりも求めていたのはこれだった。
 彼が帝国を去ってからずっと、この空気が、この雰囲気が恋しかった。真面目すぎてからかい甲斐があって、けれども頼りになる上官とこうして過ごす、時間が。
「アスアド様」
 この男に会ったら、言ってやりたいと思っていた事がたくさんあった。
 部下が側杖を食うことになるとは思わなかったのか。
 そんなにクロデキルド姫の側にいたかったのか。
 どうして誰にも何も言わずにいなくなってしまったのか。
 ――どうして、一緒に連れて行ってくれなかったのか。
「……ご心配を、おかけしました」
 それなのに、もうどうでもよくなってしまった。
 あんなに激昂するほど心配されたからだろうか。どこか困ったような、それでいて甚く気遣わしげな表情が、嬉しくて仕方ないからだろうか。
「助けてくれて、本当にありがとうございます」
 ようやく分かった。
 一度は死んだと思っていた命を拾ってくれたのは、他でもなくこの男だったのだ。
「……あの時。俺の部下、って、言ってくれましたよね」
 思い出した声と、思い出した鮮やかな赤い色。
 追われることを覚悟しながらも、走ってきた意味。それはただひとつ、彼と共に在りたかったから。
「あなたの下で働きたくて、抜けてきたんです。わたし、あなたにしかお仕えしたくありません」
「ナマエ……」
「駄目だって言っても聞きませんからね」
 どちらにしろ自分は脱走兵なのだから、もう二度と帝国に戻れはしない。
 元より未練はなかった。仕えるべき人間のいない場所になど。
「……たとえ迷惑だって言われ」
「そんなことを言うわけがないだろう」
 声を遮って告がれた言葉に目を見開いた。
 どこまでも真摯な表情は、
「来てくれてありがとう、ナマエ。本当に感謝している」
 心からの笑顔に変わる。
 頷いて、こちらも精一杯笑みを返した。
 久々に見たそれは眩しくて、どうにも泣きそうになってしまう。気取られてしまったならば、この男はまた大げさに慌ててみせることだろう。そんな様子がありありと思い浮かんで、そうなる前になんとか顔を逸らした。

「……たくさん喋ったら疲れちゃいました。アスアド様のせいですね」
「!! すまん……! 怪我人に負担をかけるなんて、俺はとんでもな」
「冗談です!」
 戯れ言まで真面目に受け取ってくれるところも、やはり少しも変わってはいない。
 ――こんな彼だから、側にいたいと思ったのだ。
「……でも、もう寝ます。早く治して、お役に立ちたいですから」
 目を閉じると、すぐに眠気が押し寄せてくる。
 どうやら本当に喋り過ぎたらしい。
 思えば安静にしていたとはとても言い難かったが、男に伝えたかったことが伝えられたのだから良いことにしようか。それに、言いそびれたことがあったとしても後からいくらでも聞かせられるのだ。これからはもう、彼と離れることもないのだから。
「……アスアド様、」
「うん?」
「……もう、黙っていなくなったりしないで下さいね」
 返事の代わりに、頭を撫でられた。
 労しげな動きは、揺りかごの心地良い揺れのようにナマエを眠りへと誘っていく。
 次に目を覚ましても、あたたかな赤い光はきっと傍らにいてくれる。そんな気がした。