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forget-me-not
失ったと思っていた。
帝国が砂漠と消えた、あの時。友も家族も部下も、誰一人を残さず失ったのだと思っていた。
形見すら残されず、存在ごと否定され、彼らはただ自分たちの記憶の中で生きるばかりになってしまったのだと。
「……アスアド?」
だから、聞き間違いだと思った。
かつての友の声が、自分の名を呼んだだなんて。
フォートアークへ攻め込む前に、少しだけ時間が欲しいと言った。
それを止めるどころか、行って来いと送り出してくれたシグには本当に感謝している。
二人の部下を連れて、砂漠を歩き、帝都の残骸の中で言葉もなく立ち尽くして。たぶん、気持ちの整理を付けたかっただけなのだと思う。気がついたら陽は傾き始めていて、融合を逃れたサルサビルに宿をとった。
一晩経っても、自分たちを取り巻く世界は何一つ変わってはいなかった。
今いるこの場所はサルサビル“王国”で、その北に位置するのは広大な砂漠。
……今更何を期待しているのだ。当然のことではないか。叶うはずもない願いの残滓を無理やり振り払って、支度を整える。自分たちが為すべきは、帝国を消し去った協会を討つことだ。今の居場所は、帰る場所は、フィルヴェーク団に他ならない。
もう、立ち止まってはいられない。悲しみの時間はしばらくお預けだ。一なる王を倒さなければ、嘆くことさえ出来なくなってしまうのだから。
次にジャナムの地に来るのは、全てが終わってからでいい。そう心に決めて、宿を発とうとしたその時だった。
アスアド、と。
聞き覚えのある声が、耳に届いた気がしたのは。
「…………ナマエ……?」
振り向いたその先。
もうどこにもいなくなってしまったはずのかつての友が、変わらない表情を浮かべてそこに立っていた。
「うわぁ、何かすっごい久しぶ」
「ナマエっ!!」
思わず駆け寄って、その身体を抱きしめる。
それは決して腕をすり抜けていったりはしなかった。体温も鼓動も、触れた肌でしっかりと感じることが出来る。
夢じゃない。夢じゃ、ない。
「ちょ、ちょっと……?」
「……本当に、ナマエなんだな……?!」
「当たり前でしょ。……アスアド、どうしちゃったの?」
――無事で良かった。
ついこぼれ落ちた言葉に、返ってきたのは「何言ってるの」と怪訝そうな声。
「無事も何も。あなたたちと違って、わたしはずっと王国の近衛兵として王宮勤めなんだから。何も危ないことなんてなかったよ?」
「……! ……そう、か……」
静かに身体を離せば、ナマエは困ったように笑っていた。
夢にも思わなかった再会の喜びは、言葉にならない苦しさと混濁していく。彼女の中ではそういうことになっているのだ。ジャナムの魔道兵団に属していた自身のことは忘れてしまって、サルサビル王国軍の近衛兵という肩書きを疑ったこともないのだろう。
「ハフィンもナキルも久しぶり。相変わらず変な上司で苦労するね?」
いつものナキルならきっと、「全くっすよ」などと言って自分をからかっていたはずだ。
けれども、今は二人とも曖昧に笑うばかりだった。
「……ところで、お前はどうしてこんな所に?」
「ああ、わたしね、家がないのよ」
あっけらかんとして、ナマエはそう答えた。
「自分でも変だと思うんだけど、町中探してもどこにもないの。だから宿屋に寝泊まり。ついこの間までは、確かにあったような気がするんだけどね?」
彼女が生きていてくれたことは幸運に他ならないはずなのに、そう呼ぶにはあまりにも残酷だった。
おそらく用事か何かがあって、ナマエは偶然サルサビルに来ていたのだろう。
その間に、世界の融合が起こった。
真正なる一書の力によって、彼女の記憶は塗り替えられてしまったのだ。
自分たちと同じように、ナマエは家族も友も帰る場所も一瞬にして失くしてしまった。
けれども違うのは、彼女が全てを忘れていること。このままずっと、偽りの記憶で生きていくこと。
真実を知ることが、彼女の為になると思ったのか。それとも、何も知らずにいる彼女を自分が見ていたくないだけなのか。
そのどちらなのかは、分からないけれど。
「ナマエ」
連れて行こうと思った。
レーツェルハフト城まで連れて行って、それから全てを話そう。思い出すことが出来なくても、それでも知っておいて欲しい。
ジャナム魔道帝国という、自分と同じ故郷があったということを。
「話があるんだ」
ハフィンとナキルが、はっと息を呑んだのが分かった。
それまで黙って聞いていた彼らだったが、自分の言わんとしているところを悟ったのだろう。
「あ、アスアド様、そりゃダメっすよ! 連れて帰っても、あっちは星を宿す者ばっかりなんすから! 書の幻が見えなかったら、絶対信じてくれないっすよ?」
「自分もナキル殿と同意見であります……! それに、このままでいた方がナマエ殿も悲しまずに済むと思うであります……」
――彼らの言うことも、分かってはいるのだ。
それでも、大切なことを忘れたまま何も知らずにいることが本当の幸せだとは思えなかった。
エゴだと言われるかもしれない。
けれど、もしも逆の立場だったとしたら。ナマエもきっと、同じことをすると思うから。
「……責任は俺が取る。書が駄目だとしても、ナマエならきっと信じてくれる」
二人が納得してくれたかどうかは分からないが、諦めてはくれたようだった。
「なぁに、皆でこそこそしちゃって。で、わたしに話って何なの?」
改めて彼女に向き直り、口を開く。
「フィルヴェーク団に来る気はないか?」
ナマエは目を丸くした。
「え?」
「家がないなんて不便だろう。けど、フィルヴェーク団は大所帯だ。城は大きいし、お前一人来たって何の問題もない」
「……」
「シャムス殿下もこちらにいらっしゃるんだ。だから、近衛兵としての仕事から外れはしないだろう?」
ぽかんとして自分の話を聞いていた彼女だったけれど、言葉が終わってから考える素振りを見せること、わずか数秒。
「……そうね、そうしようかな」
渋る様子などは微塵も見せない。
サルサビルの近衛兵という今の地位を、あまり好んでいないかのように感じられるほどだった。
「またずいぶんとあっさりっすね……」
「簡単に決めて良いのでありますか……?」
彼らも、つい声に出してしまったのだろう。
「……だって、」
そんな部下たちの言葉に対して、ナマエは初めてどこか悲しそうな表情を見せた。
「おかしいんだもの。わたし、ずっとここで働いてるはずなのに、仲のいい知り合いが全然いないなんて」
「……!」
「……だから、ちょっと寂しかったんだ」
「ナマエ……」
「でも、向こうに移ればアスアドたちと一緒なんだもんね」
それなら寂しくない。
向けられた笑みの無邪気さに、身を切られる思いがした。
「アスアド?」
「……いや、何でもない。お前が来てくれれば、俺たちも心強いよ」
きっと、自分は彼女を泣かせることになるだろう。
それでも、友として、同輩として、連れて行きたい。自分の言葉で、ナマエに真実を聞かせたい。何も知らない方が幸せだなんて、思いたくはなかった。傷つけることになったとしても、突き落とすことになったとしても、帝国にいた彼女の時間を無かったことになんてさせたくない。だから。
「行こう、ナマエ」
その手を取って、強く握った。
もう誰にもこんな思いをさせはしないと、固く心に誓いながら。