Aa ↔ Aa
嘘から出た実
「……ナマエ殿のせいっすよ?」
溜息混じりに告げられたその声に、わたしは返す言葉も持たなかった。
「本当に、どうするんすかあれ……」
あれ、とナキル殿が差した指の先には、頭を抱えながら酒場のカウンターに突っ伏す元魔道兵団長の姿がある。
たった一人でまるまる一本を空けてしまったのか、彼のそばには空になったボトルが倒れていた。
彼がああなってしまった原因は、痛いほど分かっている。
それは数時間前の出来事だった。
百万世界の中には、「毎年この日には嘘をついてもよい」という風習をもった世界があるらしい。それはたぶん、他人をちょっとからかって楽しむというような可愛らしいお遊びの類なのだと思う。わたしも人から騙されて知った事だったけれど、城内の多くの人々は朝からそれを楽しんでいたようだった。だから、わたしも本当に軽い気持ちで乗ってみたのだ。今となってはそれが悔やまれて仕方ない。真面目を絵に描いたような人物であるあの上司に、わたしはこんなことを告げてしまったのである。
"アスアド様なんて大っ嫌いです。"
そして、その結果が「あれ」というわけだ。
あまりの落ち込みように、誰も手がつけられないのだという。
ハフィン殿と、それから団長さんが説明を試みようとしたらしいけれど、「放っておいてくれ」の一点張りだったそうだ。
「わたしがなんとかしないと、下手したらずっとあのままよね……」
「分かってるなら、ちゃんと責任取るっす」
「うん、それはそうなんだけど……」
この風習に関して、わたしはひとつ誤解していたことがあった。
何人もの人を介するうちに、本来の意味が少しだけ曲がって伝わってしまったのかもしれない。あくまで今日は「嘘をつく日」なのであって、「事実と正反対のことを言う日」ではないのだ。
わたしは、後者の意味だと思っていた。
だからアスアド様にあんなことを言ったのだ。
魔道兵時代からひた隠しにしていた恋心なんて、端から叶うとは思っていない。ただ、さらっと打ち明ける機会を探していたのは事実だった。彼は知っての通りのあの性格だから、普通に告げてしまえば返ってくる反応なんて目に見えている。こちらが申し訳ない気分になるくらいの誠心誠意でもって、きちんと謝絶してくれることだろう。けれど、わたしはそんな風に重く受け止めて欲しくはなかったのだ。惨めになるのが嫌だから、という理由も、まあないとは言えない。けれど、ただ本当に知っておいてほしいだけだったから。
冗談めかして想いを伝えるのに、この風習はまたとない好機だった。アスアド様が後からこの日の意味を知ってくれたならば、わたしの気持ちに気付いてくれるかもしれない。そんな風に期待して、ああ言った。アスアド様なんて大っ嫌いです、と。
それなのに、この有様だ。
彼に立ち直ってもらうには、おそらく一から百まで説明しなければいけないだろう。あの言葉が本気でないこと、風習のことはもちろん、わたしがこの日の意味を取り違えていたことも。そしてそれは、わたしが自身の気持ちを大層情けない形で暴露しなければいけない、ということである。
もう一度、酒場のカウンターに目をやった。
アスアド様は、相変わらず顔を伏せたまま。
「……仕方ないか。わたしのせい、だものね」
これ以上は黙って見ているわけにもいかない。ナキル殿に「行ってくる」と一言残して、わたしはカウンターに向かって歩き出した。
「アスアド様」
隣の席に腰を下ろしても反応ひとつしなかった彼だけれど、名前を呼ぶとびくりと肩を動かした。
「……あの、そのままでいいから話聞いてくれますか?」
「……」
返事は返ってこない。
もちろんそれは想定の範囲だったけれど、自分の言葉に反応を返してもらえないというのは、彼の部下になって以来初めての経験だった。……これは少し、応えるかもしれない。もっとも今のわたしには、誠実さの塊であるこの人にあんなことを言った罰として甘受するしかないのだろうけれど。
「さっき言ったこと、本気じゃないですから」
アスアド様は再び肩を震わせた。
こんな様子の彼は見たことがなかった。クロデキルド姫が他の殿方と談笑しているところを遠巻きに見つめてうじうじしている時だって、ここまでひどくはないはずだ。早くなんとかしなければ。見るに堪えないと思っているのは、わたしだけではない。
幸い、話だけは聞いてくれているようで、それだけが救いだった。追い返される前に、わたしは説明を始める。
「今日なんですけどね、嘘をついてもいい日なんだそうです」
「……」
「ちょっとした嘘で人をからかって楽しむ日なんですって。別の世界にある風習で、この城に最初に伝えたのはランブル族の方だって聞きました」
「……」
「それで、朝から結構多くの人に伝わってたみたいで、わたしも一回騙されて知ったんですけど、」
「……嘘……?」
掠れた声だった。
アスアド様は緩慢な動きで顔を上げる。
目に映ったのは、予想以上にひどい表情だった。死んだような、と形容するのが一番近いのではないかと思うくらいに。
「はい。だから、ちょっとした遊びのつもりだったんです。今は本当に反省してます」
「……」
「アスアド様のお気持ちも考えないで、わたし、とんでもないことを言いました。けどあれは本心じゃないんです」
「……じゃあ、俺のことが嫌いというのは……」
「冗談です。本当にごめんなさい。嫌いだなんて、少しも思ってません」
この人は超がつくほど純真であるということを、もっと念頭に置いておくべきだった。
こんな形でばらすことになるとは思わなかったけれど、本来ならば人を傷つけるような嘘は許されていないのだ。多少の誤解をしていたとはいえ、わたしはその責任を取らなければいけない。
「……で、何でよりによってあんな嘘ついたかっていうと、わたし、」
「ナマエ」
恥ずかしいやら情けないやら申し訳ないやら、諸々の葛藤を抱えながらも覚悟を決めて告げようとした言葉は、遮られてしまった。
わたしの名を呼んだ声は、さっきよりもずっとはっきり聞こえた。
緑色の双眸には、いつもの光が戻りつつある、ように見える。わたしの気のせいでなければ。
「……嫌いじゃないんだな?」
がし、と両肩を掴まれた。
今にも揺さぶられそうな勢いと、あんなに飲んでいたにも関わらず真っ直ぐすぎる視線に、気圧されそうになる。
「は、はい」
「信じていいんだな?」
勢いにつられて、こちらもしっかりと頷いた。
「信じてください」
わたしが言えることじゃないかもしれませんけど。
そう付け足そうとした言葉はしかし、半分も言わないうちに声にならなくなってしまった。
――だって。
「良かった……!」
アスアド様が。
面白いくらいに頬を緩ませた、アスアド様が。
それはそれは、嬉しそうな顔をした、から。
「……お前が、」
「え?」
「ナマエがもう今までのように笑いかけてくれないのかと思ったら、俺は……」
……何なんだろう、この人は。
普通はそんなこと口にしないのに、この人はどうしてこうなんだろう。
ただの部下であるはずのわたしが、アスアド様からこんな風に言ってもらえるというのはどうしようもなく幸せなことなのに、わたしはひどく決まりの悪い思いがした。あんなに覚悟して恥をかくはずだったのに、それも結果的には彼のおかげでそうならずに済んだのだ。この言い様のない感情を、わたしはどうすればいいのだろう。
アスアド様はどうかしている。
だって、どうして怒らないんだろう。怒ればいいのに。ふざけるなとか、俺を何だと思ってるんだとか、言えばいいのに。
「本当に、良かった……」
それなのに、そう言ってくれる彼は嬉しそうで。
どうしようもないほど、うれしそうで。
「……ああもう!」
我慢できない。
勢いよく椅子から立ち上がったわたしを、アスアド様は驚いたように見た。
どこまでも無防備な表情はわたしの心なんて何も知らないで、そのくせわたしを喜ばせてばかりいて。
――そんなだから。 あなたがそんなだから、わたしは。
「アスアド様なんて、大好きです!!」