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distance

 ビュクセを呼んできて欲しい、と言われた。
 ミーネがわたしにそれを頼んだのは、偶然その場に居合わせたからというだけが理由ではないだろう。彼女はわたしの気持ちを知っているのだ。
 彼女が聡いのか、わたしが分かりやすすぎるのか。原因はそのどちらにもあるような気がした。後者の方は、情けない限りだけれど。

 ドアの前で、深呼吸をひとつ。
 隊長は出掛けてるから、たぶんビュクセしかいないはずよ。ミーネの言葉を思い出して、頭を抱えたくなった。ビュクセと二人だけで会話――と言ってもほとんどはわたしが一方的に喋るだけなのだろうけど、それでも間に誰も挟まずに顔を合わせるのは初めてだった。ただ呼びに来ただけなのだから、ここまで緊張することもないはずなのに。
 ミーネが呼んでる。エントランスで待ってるって。
 そんな風に言えばいいだろうか。極端に無口な彼とはいえ、こちらの話は普通に通じるのだから問題はないはずだ。たぶん。
 覚悟を決めて、扉を二回叩く。
 が、返事はない。
 数秒置いて、もう一度叩いてみてもやはり結果は同じだった。……どうしようか。ビュクセと顔を合わせてからどう対応するか、ということにばかりに必死で、返事が来ない可能性までは考えていなかった。これでは在室なのかそうでないのかも分からない。ミーネは急いだ風ではなかったけれど、待たせるのも悪いと思った。
 ――仕方ない、開けてしまえ。
 わたしにしては思い切ったものだった。でも、もし在室だとしても、返事をしなかった人間に文句は言えないはずだ。……そもそも、ビュクセなら何も言わないか。ただ、視線だけで抗議されるのは少し怖いかもしれないけれど。
 そんなことを考えながら、取っ手に指をかけた、その時だった。
「――!?」
 ガチャリという音とともに、身体が思い切り前方に引かれたのだ。
 何が起こったのかを瞬時に理解できるはずもなく、強い引力のままに思いきりつんのめる。
 おかしな体勢になっているせいでバランスが取れない。このまま顔面から床に激突するしかなさそうだ。お願いだから歯だけは折れないでと願いながら、きつく目を閉じて来たるべき衝撃に耐える。けれども、やってきたそれは覚悟したよりもずっと緩いものだった。身体の浮遊感はもうない。瞼を開けてみれば、上体を支えてくれている腕が視界に入った。
「…………大丈夫か」
 降ってきた声に上を向く。
 ビュクセの顔が思いのほか近くにあって、一瞬だけ今の状況が頭から飛んでいってしまった。
「えっ、あ、へ、平気……! ありがとう、」
 我に返ったと同時に慌てて彼から離れ、気恥ずかしさに視線を床に落とした。
 触れていた箇所は、布越しだったというのに熱を帯びている。居たなら返事くらいしてくれればいいのにだとか、そんな言葉は出てきそうになかった。
 危うく転倒しかけた時は心臓が冷える思いがしたけれど、今度はそれが止まるかと思った。……抱きとめられたのだ。ほんの僅かな時間ではあったけれど、そこまで接近したことなんてあるはずもなかった。そもそも、二人きりになるのだって初めてなのだから。
 目で追うようになったのは、いつからだろうか。
 彼の考えていること、彼の双眸の先にあるものを、知りたいと思うようになったのは。
 その片隅にでも、端にでも、自分の姿が映っていてくれればいいと願った。そうして今、彼の目の前にはわたししかいない――……
(…………なんて、無理か)
 視線を上げた先、ビュクセは相変わらずいつもの無表情。
 わたしは何を期待していたのだろう。そんな感情を抱いているのは、わたしの方だけだというのに。
 途端に、一人で浮かれていた自分が馬鹿らしくなってくる。目が覚めたような心地で、今ここに立っている意味を思い出した。ミーネが待っているのだから、早く用件を告げなければ。
「……あのね、」
「……」
「呼びに来たの。ミーネが、エントランスで待ってる」
「……」
「……うん、まあ、それだけなんだけど」
 ビュクセは何も言ってくれなかった。
 そんなこと、初めから分かっていたことではないか。わたしが一方的に喋るだけになりそうだ、と。
 呼んできてくれと頼まれて、部屋には彼しかいないはずだと言われて、それだけで笑いたくなるくらいに緊張していた自分がひどく滑稽に思えた。接近した、といっても、それは物理的な意味に過ぎない。大体、さっきのはただの事故のようなものだったのだ。本当に、馬鹿みたいだ。
「……じゃあ、確かに伝えたからね」
 顔を逸らして、わたしは身体を返そうとした。
 自室に戻って、ちょっと頭を冷やしたい。そう思いながら。

「――待て」
 突然、背後にあった半開きの扉が勢いよく閉じられた。
 あまりの大音に、思わず息を呑む。何が起こったのかも分からずにただ固まっていると、右肩の上からすっと腕が抜かれた。……どうやら、ビュクセがわたしの顔の横から手を伸ばして扉を強く押したらしい。
「……ビュクセ……?」
 鋭い瞳が、真っ直ぐにわたしを見据えている。
 その強さに気圧されて、じりじりと後ずさった。とは言えわたしの背後に許された空間なんて、たった数歩分のものだ。間もなく、閉じた扉に背がぶつかった。彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。元からたいして開いていない距離は、簡単に詰められてしまった。
「ど、どうしたの……?」
 ビュクセの考えていることが分かったためしなんて一度もない。
 でも、彼と出会って以来、今ほどそれを感じたことはなかった。
 ――こわい。
 たぶんそれは、ビュクセが怖いのではない、と思う。
 ただ、この理解できない状況と、息の詰まるような緊張した空気。そこでこれから何が起こるのかが分からなくて、だから怖い。
「ねえ、何か言ってよ……」
 声は情けなく震えている。
 それでも、願いが聞き入れられることはなかった。
 間近で見下ろされて、蛇に睨まれた蛙のように身が竦んで動けない。
「ビュクセ……っ!」
 喉の奥から声を絞り出して、縋るように名前を呼んだ。
 ビュクセは何も言わないまま、わたしの頬に片手を触れさせる。ひんやりとした温度に背中がぞくりとした。言葉の代わりと呼ぶには、あまりにも伝わらなさすぎる。顔を上向かされて、彼の双眸に吸い込まれそうなくらいに近付いて、強張りは一層増した。
 ここまで来てしまえば、次に彼が何をするかということくらい嫌でも想像できてしまう。
 でも、何かが違った。嬉しいけれど、嬉しいはずなのに、このまま流されていいのかという疑念が心の奥深くで渦巻いている。
 だって分からない。分からないのだ。彼が何を考えているのか。
 それがきっと、素直に喜べない理由だった。近くても、こんなに近くにいてもなお、どこか恐れを抱いているのは、まだ彼との間にある心理的な距離感を払拭出来ていないからだ。――なのに、こんな。
 とうとう耐えられないくらいまでに顔が近付いて、為す術もないわたしはひたすらきつく目を閉じる。
 吐息が触れて、何も考えられなくなりそうになった。
 けれども。
 それ以上空気が揺れることもなければ、まだ知らない熱が与えられることもなかった。
「ナマエ」
 こんなにはっきりとした発音で、名前を呼ばれたことがあっただろうか。
「……嫌なら、止める」
 思わず目を開けた。
 片手は頬に触れられたまま、ビュクセの顔はまだ至近距離にある。彼は眉根を寄せていた――辛そうにして。
「……嫌じゃない」
 ビュクセの考えていることが分かったためしなんて、一度もない。一度もなかった。
 ――今までは。
「嫌じゃないよ。だって、」
 端から諦めていた、なんてことはない。
 ただ、彼は表情も崩さなければ、言葉にもしてくれなかった。だから特別な感情なんてそこにはないのだと、勝手に決めつけていた。
 けれど今、初めて気が付いた。
 わたしだけではなかったということ。
 彼も同じだったということ。
「わたしは、ビュクセが好き」
 手を伸ばすことを、わたしは迷わなかった。
 驚いたような表情を最後にして、触れた唇の温度に感覚を傾ける。
 ――やっと、届いた。
 息の詰まるような苦しさがほどけて、温い幸せが沁みこむように身体を満たしていくのが分かった。扉にくっついていた背をそっと剥がされ、きゅう、と抱きしめられて泣きそうになる。やがて離れた唇から、抱えきれない熱が呼気と一緒に少しだけ空気に融けていった。
 頬に伝った涙を気取られないように、肩口に額を預ける。
 甘やかな拘束が緩む気配はなかった。もっとも、わたしの方も、彼の背に力なく廻した腕を解ける気はしなかったのだけれど。
 ……もう少しだけ、待たせることになりそうだ。
 心の中でミーネに謝りながら、わたしは優しく髪を撫でられる感触に目を閉じていた。