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on the last night
この城の回廊を歩くのも、今日が最後だと思った。
祖国が滅びようとしていることに、今や自分は何の疑いも抱いてはいない。それは軍人としてはあまり褒められたものではないけれども、負け戦に命を投じることへの抵抗は少しもなかった。
テラスへと続く長い廊下を歩く。
もう夜も遅い時間だった。城内にいる人間のほとんどは来たるべき最後の戦いに備えて休んでいるか、そうでなければ眠れぬ夜を過ごしているのだろう。赤毛の将軍がわざわざ訪ねて来て、「クルガンがテラスで待ってるぜ」と言い残して行ったのは先程の事だが、彼ももう自室へと戻っている頃だ。警護の任もなくこんな時間に出歩いているのはおそらく自分くらいのものだろう。
やがて廊下の終端まで辿り着く。静かに扉を開ければ、そこで待っていた男がこちらを振り返った。
「来たか」
決戦前夜にしては、どこか穏やかな表情に見える。
ナマエはこの男に仕えて長い。初めのうちは、常に冷静さを崩さずあまりにも無表情な男を本当に感情が無いのではと思っていたこともあった。けれど今では、眉の動きだとかそういった些細なものから、なんとなく彼の感情の機微を読み取れるようになった気がする。
「お待たせしてしまいました」
「いや」
扉を閉じ、男の傍らまで歩み寄る。
テーブルに置かれていたのはグラスと数本のボトルだけで、肴になるようなものはひとつもなかった。三つあるグラスうちの二つには使われた跡がある。自分を呼びに来る前までは、赤毛の将軍はここにいたのだろう。
「シード様はよろしいのですか?」
「ああ。どうやらあいつなりに気を遣ってくれたらしい」
彼はクルガンと自分との関係を知っている。
戦友同士酒を酌み交わすような時間もこれが最後だったのだろうが、シードが自分のためにそれを削ってくれたのかと思うと申し訳ない気分になった。そんなナマエの心中を読んだかのように、目の前の男は小さく笑う。
「気にすることはないさ。……あいつとは、明日も最後まで顔を合わせていることになるからな」
それは言外に、男と自分とは最後の時を共有出来ないのだと言っていた。……分かっていたことだ。
明日、皇都ルルノイエは落ちる。
それから同盟軍の精鋭が城内に攻め入ってくるのも時間の問題だろう。玉座を守るのは彼ら二人。自分がそこにいることは、許されてはいないのだ。
「……恋人としては、あまり構ってやれなかったな」
空のグラスに薄い金色の液体を注いでいると、男が静かに口を開いた。
「そんなこと……」
確かに彼は多忙であったし、二人きりで過ごすような時間はあまり取れなかった。
けれど、国のために心血を注ぐ彼の姿が好きだったのだ。自分にとってもハイランドは愛する祖国だ。その国のために、彼と共に働けるというだけで本当に満たされた気持ちになっていた。たとえそれが、明日で終わってしまうものだとしても。
「あなたのお側に居られるだけで幸せでしたから」
「……本当か?」
「え?」
思わずボトルを置いて、男の顔を見る。先程までとは違い、その表情は読めない。
「私は……それでは足りん」
言葉を最後まで聞かないうちに、腕を強く引かれた。
バランスを失って倒れ込んだ身体は男の腕にしっかりと抱きとめられる。途端に視界は黒く覆われ、感じるのは背に廻された腕の力と、衣越しに伝わる温度と。仄かな香水の香りに混じって、甘ったるいアルコールの匂いがした。
「クルガン様……酔って……」
「……そうだろうな」
呟くような声がすぐ傍から降ってくる。
「可笑しいか? こんな私は……」
――おかしい、というのとは少し違った。
らしくないとは思ったけれども。
前触れもなく強引に抱きしめられたのもそうだけれど、今までこんな風にあからさまに酔った彼は見たことがなかった。栓の開いたボトルは一本だけだったし、その中身も全部無くなってはいなかった。それをシードと二人で飲んでいたのだから、量だけで言えばそれほどのものでもないはずなのだ。
やはり、逃れられない運命のせいだろうか。この国とそれを共にする覚悟は誰より強いはずのこの男であっても。
「ナマエ」
名を呼ばれ、びくりと身体が強張った。
耳元で囁かれたからというだけではない。男の声音が突然、聞いたこともないほどに硬くなったのだ。
「逃げろ」
「何、を……?」
それはあまりにも唐突な言葉だった。
先程までの空気はもうここにはない。息を吸う気配に、思わず身構えた。
「お前は女だ、武器を捨ててもいくらでも幸せになれ――」
「嫌です!!」
男の言わんとしていることを理解した瞬間、そう叫んでいた。
大声に驚いたのか、身体を拘束する腕の力が僅かに緩む。その隙に無理矢理身体を捩って距離を開いた。たったそれだけの動作で、息が切れそうになる。
「嫌です、絶対に……! どうしてそのようなことをおっしゃるのです!」
「ナマエ、」
「わたしの志は、常にあなたと共にあることをお忘れですか……!? たとえお側にいることが許されずとも、わたしは最後まであなたの盾として……!」
それ以上の言葉は続かなかった。
身体は再び引き寄せられ、痛いほどの力で抱き込まれる。嗚咽が零れそうになるのを、唇を固く閉じて必死に殺した。
「……分かっている」
顔は胸板に押し付けられて、言葉は強引に封じられている。
唯一自由を許された指は、男の服を力なく握りしめることしか出来ない。物音ひとつしない静謐な夜の中、乱れることのない男の鼓動を感じながら、ナマエは目を閉じて彼の静かな声を聞いていた。
「分かっていたんだ。お前ならきっとそう言うだろうと。絶対にそれを曲げる気はないだろうと」
――それでも。
男は言葉を切った。背に廻されていた手の片方が優しく髪に差し入れられ、そのまま頬を捉える。男の胸にぴたりと付いていた顔は離され、そっと上向かされた。
「……それでも生きていて欲しいと願うのは、私の我侭なのだろうな」
ずるい。
本当は自分だってそう願っていた。
国を捨ててでも、惨めに敗走してでも、生きていて欲しいと。将としてではなく、一人のひととして生きていて欲しいと。
けれどそれは言えなかった。言わないと決めていた。彼ならば絶対に、将軍としての誇りを貫くことを選ぶと分かっていたから。だから、彼に殉じようと思ったのだ。その瞬間に側にいることが出来なくとも、ならばせめて心だけはと。そう思っていたのに。
「……泣くな。お前に泣かれると、どうしていいか分からなくなる」
「泣いて、など……っ」
男はあやすような口づけなどくれなかった。ただ、いっそ荒々しささえ感じさせるほどのそれが無遠慮に口内を蹂躙する。流れ込んでくる灼けつくような熱は、確かにアルコールの所為だけではなかった。呼吸は簡単に奪われる。叶うのならば、このまま全てを奪って欲しかった。
身体はもう、疼いているのか震えているのかも分からない。零れ落ちる涙も止められないままで、ナマエは絡みつく舌に必死で応えた。
――これが最後のキスなのだと、そう心に刻みつけながら。