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フラジャイル
本当は、最初から誰もがそれぞれの道を少しずつ歩みつつあったのかもしれない。
そのことに気付くのに、この小さな村はあまりに穏やかで、あまりに平和すぎたのかもしれない。
けれど、いつまでもこのまま幸せに過ごしていられることを疑ったことなんて、わたしは一度だってなかったのだ。
村を脅かそうとした協会の軍は無事に追い払ったと聞いたのに、一人で村に戻ってきたディルクは傷を負っていた。今ではその怪我もだいぶ良くなってはいたけれど、わたしは未だに毎日その手当てを続けている。
わたしはきっと、彼を一人にしておきたくないんだろう。彼が負ってきたのは、その傷だけではなかったから。
――凶暴化したもさもさの退治から帰って来た日以来、ディルクの笑みがぎこちなくなった気はしていた。
マリカの偽物を突き止める旅にも彼は同行しなかった。村に残ったリウも何も話してはくれなかったし、ディルク自身も詳しいことを口にしようとはしなかった。
帰ってきた皆を迎えて、シグたちに頑張ったねと言って。それからディルクには、お疲れ様とそう言えるんだと思っていたのに。ちらつく違和感に気付かない振りをすることは、わたしには出来なかった。
今だってそうだ。協会軍から村を守るための戦いに出て、けれども彼は弟分たちを置いて一人で村に帰ってきた。はっきりとわたしにそうは言わなかったけれど、彼に砦の遺跡に戻る気がないことは明らかだった。
傷薬を塗った上から包帯を巻き、きゅっと結ぶ。彼が僅かに顔をしかめたのが分かった。
「……まだ痛むの?」
「……」
「……ディルク?」
「あ、いや……平気さ」
向けられたのは力無い笑み。
それを目にする度に、わたしは自らの無力さを思い知る。
シグ達を守ることが出来なかった。逆に彼らに守られる形になってしまった。ディルクはそう言っていたけれど、彼が苦しんでいるのはそのことじゃない。きっとそれを悔やんでいるんじゃない。彼ならば、弟分たちの成長を誰より喜ぶはずなのだから。
何が変わってしまったのか。何が変わらなければいけなかったのか。
協会と戦うんだと言って村を出て行ったシグ達が、正しいものを見ていることくらい分かっている。だけどそれはディルクだって同じはずで、だからこの人が間違っているわけなんじゃない。
――ただ、どうしたらいいのか分からないだけなのだ。
「……ナマエ?」
気付けば、わたしは彼の手を握りしめていた。
「あのね、」
わたしはこの人に何をしてあげられるのだろう。どんな言葉を告げたらいいのだろう。
"みんなすぐに戻ってきてくれるよ"? それとも、"やっぱりわたしたちも遺跡に移ろうよ"? 浮かんだ台詞のどれもこれも、違う気がした。
どうしていいのか分からないのは自分も同じだった。
あれから時間はほんの少ししか経っていないはずなのに、穏やかだった日々はひどく遠くに感じられてしまうのだ。不安も恐れも何もなかったあの頃に戻りたい、わたしの――わたしたちの願いはただそれだけだったのに。
「……だめ。ごめん、うまく言え、」
最後まで声にならなかったのは、身体を強く引き寄せられたからだった。
いっそ苦しいほどの力で抱き込まれる。隔てるものなく伝わってくる微かな震えと温度に、はっとした。
この人の温かさだけは、まるで変わっていない。
「ナマエ」
名前を呼ばれて、顔を起こしてわたしは無理やり笑った。そうしなければいけない、と思った。
一瞬、彼も同じようにして、さっきのとは違う本来の優しい笑みを見せてくれたような気がしたけれど、わたしの視界はすぐに影に覆われてしまって、それを確かめることは出来なかった。
けれども唇に与えられる熱も、やっぱり変わってはいなかったのだ。
「……お前がいてくれるなら、俺はどんなことだって……」
彼に幸せでいて欲しくて、彼と幸せでいたくて、だから。
わたしがディルクの安らげる場所で在れるのなら、せめてそれだけは守り続けていたい。
「大丈夫。わたしはずっとディルクと一緒だから」
声が震えた。
再び頭を抱え込まれて、辺りから音が消える。
「……ああ、そうだな。――最初から、そう決まっていたんだよな」
彼の最後の言葉を聞き取ることは出来なかった。
わたしたちはただ、ひたすら互いを確かめるように縋り合ったままでいた。