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pour toi
ナマエと喧嘩をした。
お互いに熱しやすい性格をした自分たちにとっては、些細なことで言い合いをするのは珍しいことではない。むしろ日常茶飯事だ。
けれども今回のそれは、いつもと少し違った。
喧嘩を吹っ掛けてくるのはほとんどの場合ナマエの方だ。
と言っても、原因の方は間違いなく十割が自分にある。毛を逆立てた猫のように噛みついてくる彼女が面白くて、いつもからかい半分でちょっかいを出すのだ。しかし、最初のうちはふざけているつもりでも、気付いた時には自分までもがつい過熱してしまっている――それが、いつもの自分たちのやり合いだった。
だが、今回は自分が彼女をからかったことに端を発したわけではなかったし、周りから呆れられてしまうようなくだらない言い合いでもなかったのだ。
「……」
自身の腕に巻かれた包帯に目をやる。
戦いの後でナマエが施してくれたものだった。その下には、今日出来たばかりの傷がある。
自分たちの諍いの原因は、まさにその傷だった。
甲板での白兵戦、敵軍に真っ向から突っ込んでいった結果負ってしまったそれが、軽いとは言えないものだということは認める。確かに無茶をした自覚はあった。けれどもそれは勝算があったからだし、戦況を考えた上でそうすることが最善だと思われたからだった。相棒には窘められてしまったが、キカに拾われる以前に単身で海賊業をやっていた時のことを考えれば、この程度の無茶は可愛いものなのである。本当は、もう少し軽い傷のみで済ませるつもりだったのだけれど。
ちょっと止血してくれ、と怪我を負った腕を差し出した時、ナマエはその表情をひどく歪ませた。
いつもなら手当てをしてくれる間中ずっと文句を垂れ流している彼女が、今日ばかりは終始黙り込んでいた。
彼女がようやく口を開いたのは、包帯を巻き終えた時。こちらが礼を言う間も与えず、ナマエは思い切り苛立ちを露わにしながら声を荒げたのだった。
『……何だったのよ、さっきの戦いは……!』
『あぁ? 何だよ、文句でもあんのか?』
『大アリよ! ほんっと馬鹿なんじゃないの!? どうしてあんなめちゃくちゃな戦い方したのよ!』
『……待てよ、お前何で怒ってんだよ!?』
『こんなひどい怪我見せられて、怒らないわけないじゃない! どうせ考えなしに突っ込んだんでしょ!?』
『なっ……うるせえな! 倒したんだからいいじゃねえか!』
『そういう問題じゃないわよ!! もっと冷静に戦えないわけ!?』
『俺には俺の戦い方があるってもんだろ! お前に口出しされる筋合いはねえよ!』
『じゃあその怪我はいったい何よ! あんたのことだから、誰かが治してくれるからちょっとくらい怪我してもいい、なんて思ってたんじゃないの!?』
ナマエは本気で怒っていた。
しかし落ち着いて彼女の心情を斟酌するどころか、激しい口調で投げつけられる言葉に黙っていることも出来ない自分に出来たことはと言えば、かっとなって彼女と同じように無遠慮に言葉をぶつけ返すことだけだった。思った以上の怪我を負ったことに対する自身への苛立ちも、心の深奥には少なからずあったのだが。
そして最終的に、自分は今回の決定打にもなるような台詞を吐いてしまうことになる。
『戦えもしねえくせに、偉そうなこと言ってんじゃねえ!』
その後、ついに怒声は返って来なかった。ナマエはそれ以上何も言わず、唇を引き結んで自分の前から走り去って行ったのだった。
「……あー、ちくしょう!」
今更、自身の短慮に腹立たしさを覚えた。
このオレンジ号は何人もの非戦闘員を抱えている。たとえば食事だとか物資の管理だとか傷病の治療だとか、戦い以外の面でサポートをしてくれる彼らがいなければ、この航海自体が成り立たないのだ。彼らには感謝こそすれ、戦えないことをどうこう思ったりなどするはずもない。あの言葉はただ、本当につい感情的になって言ってしまっただけなのだ。
口調の刺々しさはともかくとして、ナマエが本心から心配してくれていたのは分かる。それこそ、あんなに本気で激高するほどまでに。
夜までにはまだ時間があったが、彼女は既に部屋で休んでいるのだと聞いていた。恐らく疲れているのだろう。戦わずとも、仕事は山のようにある。そんな中で、自分とあんな言い合いをしてしまったのでは――。
明日、朝一番に謝ろう。そう思った。
***
その夜は、ベッドに入ってもなかなか眠りにつけずにいた。
昼間のことが気に掛かっているせいなのかどうかは分からないが、どうにも眠れそうにない。いっそ外の風にも当たってこようかと、同室の相棒を起こさないよう静かにベッドから起きだした。
廊下へ出て、甲板の方と足を向ける。が、ふと足が止まった。かすかな物音が耳に届いたのだ。
賊――ではないだろう。この船には優秀な見張りがいるのだし、それに物音は船の奥の方から聞こえていた。
何か船体に不具合が見つかって、船大工が修理をしているのかもしれないし、誰かが少々荒っぽく武器の手入れをしているだけなのかもしれない。恐らく大したことではないのだろうが、なんとなく気になってしまう。結局、風に当たりに行くのはやめ、音のする方へ向かうことにした。
階下に下りていくほど、それははっきりと聞こえるようになる。第五甲板まで足を進めて、ようやくその出所が分かった――訓練場だ。しかし、部屋には明かりもついていない。この時間ならばラインホルトも休んでいるはずだし、こんな夜中にいったい誰が訓練をしているのだろう。
訝しく思いながら、そっと扉を開ける。そうしてその先にいた人物を認めた瞬間、驚きのあまり声を上げてしまっていた。
「ナマエ!?」
向こうもまた、驚いたようにこちらを振り返る。けれども彼女は何も言うことなく、すぐに自分から顔を逸らしてしまった。
ふと、その手に握られているものに気付く。
それは、剣だった。木製のものではなく、鉄で出来た本物の剣。
「おい、お前何やってんだよ!?」
慌てて扉を閉め、抑えた声を上げる。
ナマエは片手剣を両手で握っていた。しかし両腕を添えてなお金属の重さを支え切れておらず、それは小刻みに震えている。きっと初めて剣を握っているのだろうが、手袋も手甲も身に着けられてはいない。初心者が指導もなく一人で真剣を扱うなどということは、どう考えたって危険すぎた。
「ほっといてよ……!」
「んなもん振り回すんじゃねえ! 危ねぇだろうが!」
「うるさいってば!!」
勢いのままに、ぶんと剣を振ってきた。
切先がこちらを向いて、反射的に飛び退ける。剣の重さに引っ張られた彼女の痩躯はぐらりとよろめいた。転倒することだけは何とか踏み留まっていたが、もうこれ以上は見ていられない。だから今すぐ剣を取り上げてしまいたいのだが、素人である上に気が立っている今の彼女では、どんな動きをするのかが予測できなかった。無理に手を出して今のように暴れでもしたら、恐ろしいことになるかもしれない。
「わたしだって、やれば出来るんだから……!」
「ナマエ!」
――ガタン。
鈍い、大きな音が響く。幸いにも、重さに耐えきれなくなったのか彼女が剣を取り落としたのだ。
即座に傍に駆け寄って、剣を拾おうとする身体を後ろから抱え込むように封じた。
「……離してよ。離して!」
「……それ、拾わねえって言うならな」
「何でっ」
「お前はそんなことしなくていいんだよ!」
声を張ると、ようやく彼女は押し黙る。
いくらかほっとしながら、明日の朝に告げるつもりだった言葉を口にした。今が真夜中であるということを思い出し、少しトーンを落としながら。
「……悪かった。あん時は言い過ぎた」
痩躯がびくと強張った。力が抜けたようにして彼女が膝を折ったのと一緒に、自分も座り込む。
この状態から立ち上がって再び剣を拾おうとするとは思えなかったが、それでも回した腕は解かないままでいた。
「あれは本気だったわけじゃねえ。……何つうか、つい頭に血が上っちまってよ」
「……別に、わたしが戦えないのは本当のことだから」
「だから気にすんなって、」
「するわよ……!」
思い詰めたような声に遮られる。
やがて、ナマエはぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
「……わたしも戦えたら良かったのにって、いつも思ってる。だって、一緒に戦えたら助けてあげられるかもしれないもの」
――待ってることしか出来ないなんて、本当はすごく嫌なのに。
戦えないことで、彼女がここまで苦しんでいるとは思わなかった。自分にとってはこれしきの怪我と思われるものでも、彼女には身が凍えるような思いをさせていたのかもしれない。改めて、あの時自身が発した言葉の罪深さを知った。
「その……何だ、あんまり心配すんなよ。俺は大丈夫だからさ」
「……その自信はどこから来るの?」
「大丈夫なもんは大丈夫なんだよ!」
思わずいつもの調子で返してしまってはっとする。これではまた昼間の繰り返しになってしまうかもしれない。
言い直そうかと思った矢先、ナマエから返ってきたのは溜め息と笑みの混じった声だった。
「……そんなに言うなら、もう二度と今日みたいな怪我しないでよね」
約束は出来ないけれど、それでも頷いた。
「おう、努力するよ」
「……心配、してるんだから」
「分かってる。……ありがとな」
「……あと、」
「うん?」
「……わたしも言い過ぎた、って思ってるから」
珍しく神妙な態度に気恥ずかしさを覚えてしまい、それを誤魔化すようにぽんぽんと彼女の頭を叩く。普段ならこんな事をされて黙っているナマエではないけれど、いつものような抵抗を口にすることはなかった。
「……よし、もう戻ろうぜ。慣れねぇもん振り回して疲れただろ」
腰を上げて、床に転がった剣を部屋の隅へ片付ける。
それから、まだ座ったままのナマエの手を取って、彼女が立ち上がるのを促した。気が緩んだところで疲労感と眠気とが一気に襲ってきたのかもしれない。彼女は小さく「ありがとう」と言ったきり、自分から口を開くことはなかった。
――疲れただけで済んで、本当に良かったと思う。
暗い部屋の中、彼女が一人で剣を握っていたと考えただけで背筋がぞっとするのだ。
もし、自分がここに来なかったなら。あんなものを振り回して大怪我でもして、そうして誰にも気付かれることがなかったとしたら。
悪い想像ばかりが頭を巡って、思い至る。
自分の怪我を目にした時の彼女も、同じ気持ちだったのかもしれないと。
握ったままの手、その温度を失いたくない。
それが同じ思いだったならば、もう二度と彼女を心配させることがないように。その瞳を涙で腫れさせることのないようにと、一人決意を固めるのだった。