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真綿の桎梏

 いつまでも変わらずに平和な日々が訪れると、馬鹿みたいにそう信じていられたらよかった。
 けれどあの頃のわたしは、何かが変わってしまう予感に気付かずにいられるほど子供でもなければ、気付かない振りが出来るほど大人にもなれなかった。
 元々わたしは、軍師なんかには向いていなかったのだと思う。
 たとえばシュウのように、得た知識を自分の思うままに使おうとも考えていなければ、アップルのように「戦いを終わらせるための軍略」だなんて立派な意識も持っていなかった。
 わたしはただあの人に近付きたいが為に、それを学んでいただけだったのだから。

 小さな村がどんなに穏やかであっても、国では戦争が続いていたし、あの人の妹はその最前線に身を投じていた。
 全てを知っていながら、それでもあの人はそこから目を背け続けていた。
 "力を持っているのに、それを使わないのは臆病だ。"
 それは、かつて妹からあの人へと告げられた言葉だという。思えば昔シュウも似たようなことを言っていた。ただ彼の場合は、宝の持ち腐れ、というような表現を使っていたけれど。
 わたしはそれに賛成することは出来なかった。どこまでも世捨て人たろうとするあの人の態度に疑問を抱いたことがなかったわけではないけれど、でもあの人は、自らの力を行使することなんか望んでいないはずだったから。帝国軍にも解放軍にも関わらずに、長閑な村で過ごすことがあの人の願いだと思っていたから。わたしは、あの人の平穏が奪われてしまうことが許せなかったのだ。

 ――でも、今日、私の選択は間違いだったと分かりました。瞼を閉じても、世界がなくなったわけではないのです。
 ――私も今日この日から、彼女の目指したものを目指しましょう。

 それなのに、あの人は自分の選択を間違いだったと言った。
 気付きたくもなかった変化の予感はある日とうとう現実となって、運命を背負った少年があの人の閉ざされた目を再び開かせてしまった。

 力を持っているのに、それを使わないことは臆病だ。
 あの人を奪っていったその命題への答えを、わたしは未だに出すことが出来ずにいる。


 ***


「お願いです、わたしも連れて行ってください……!」
 もう何度、同じ願いを口にしただろう。
 そしてその度に、先生は困った顔をしながら横に首を振るのだ。
「ナマエ、分かってくれないか。君にはここを守っていて欲しいんだ。ここは私の帰る場所だからね」
「嫌です、先生と離れたくありません」
「参ったな……。我侭を言うなんて、君らしくもない」
 わたしだって、先生を困らせるのは本意じゃない。
 けれども、納得のいくような理由を聞かせてもらえないうちは、とても引き下がることなんて出来なかった。
 たとえ地の果てだって、どこまでも先生に付いていく覚悟なんて最初からある。わたしの一番の幸せは、先生の側にいることなんだから。

 帝国からの接触は、これが初めてというわけではなかった。
 もちろん毎回先生に追い返されていたけれど、国から使者がやって来たことはこれまでにも何度かあった。それでも、何を言われても先生は決して帝国に戻ろうとはしなかったから、とうとう相手の方も痺れを切らしたらしい。文官の使者ではなく兵士を何人も引き連れて、帝国軍は無理やり先生を連行しようとする暴挙に出たのだった。
 まだ幼い門下生を人質にされて、もしあのまま誰の助けもなければ、先生は本当に連れて行かれてしまっていただろう。
 それを救ってくれたのが、先生の妹であるオデッサさんの遺志を継いだマクドール家の少年だったのは、もしかしたら必然だったのかもしれない。
 オデッサさんの死。そして、彼女が少年に希望を託したこと。
 それが、先生の中の何かを動かしたようだった。
 亡き妹が少年の瞳に見出した覚悟と強さは確かなものだった、と先生は言った。そして先生は、解放軍の軍師として彼のために力を尽くすことを決めたのだった。
 帝国の横暴を知りながら、しかもそれに対抗しうる術を持っていながらも隠居を選んだ自分と、信じるもののために自ら戦いの中に身を置いた妹と。そんな状況にあって先生は、本当はわたしの気付かないところで自分の在るべき姿に悩んでいたこともあったのかもしれない。
 あれだけ戦争を嫌っていたのに。ここで子供たちと過ごすことが望みだと言っていたのに、それなのにどうして。頭を過ぎった言葉は、結局どれも口には出せなかった。わたしには先生を引き止めることは出来ない、そのことがよく分かっていたから。
 だから。
 先生の意志が変わらないのなら、それなら自分も一緒に行けばいい。
 そう思って同行を願い出たわたしを、先生は許してはくれなかった。
「どうしてですか? わたしの力じゃ、先生のお手伝いすら出来ないんですか……?」
 掃除も洗濯も食事の支度も、幼い子供たちの面倒を見ることも、わたしは先生のためなら何だって出来たし何だってやってきた。シュウやアップルと比べれば確かに軍略の才には劣っていただろうけれど、それでも先生に近付くために勉強だって毎日欠かさず積み重ねてきたのに。
「君は優秀な弟子ですよ」
「じゃあどうして!!」
「……」
 先生は答えをくれないまま、わたしに背を向けてしまった。
 ずるいと思うのはこういう時だ。だって、先生には何もかもお見通しなのだ。連れて行ってもらえない理由なんて本当はわたし自身が一番よく分かっていて、そしてそのことに先生は気付いていて、なのに先生はいつまでも決定打をくれない。まるで、わたしが爆発してどうしようもなくなるのを待っているみたいに。
 シュウの時だってそうだった。誰よりも先生を尊敬していたがゆえに、シュウは先生がその力を使おうとしないことに不満を抱いていた。先生の教えの先にあるものと、シュウの目指す先にあるものは違う。その事にはいち早く気付いていたはずなのに、もしかしたら分かれかけた道を一つにすることが出来たかもしれないのに、なのに先生は最後までそうしなかった。先生への尊崇と自分の理想との間で剥離が広がっていくことに、シュウも彼なりに苦しんでいたんだと思う。結局、先生が限界までシュウのさせたいようにさせてきた結果がもたらしたものは、最悪の形での別れだった。
 先生は、ひどい。
 わたしの気持ちなんて、ずっと前から分かっているくせに。
 心の中で恨み言を呟きながら、わたしは先生の少し痩せた背中に抱きついた。
「……お慕いしています」
「……」
「師としてだけじゃない、あなたという人を愛してるんです。わたしはマッシュ先生が大好きなの……!」
 思わず泣きそうになるのを堪えながら、両腕にぎゅっと力を込める。
 情けない懇願の残滓が消えてしまうまでの間が、ひどく長く思えた。
「……ナマエ」
 やがて、先生の手がわたしのそれに重ねられる。思い切りしがみついていたはずが、触れられただけで力が抜けてしまって、そのままわたしの腕はやんわりと解かれた。
 先生はこちらに向き直り、そして真っ直ぐにわたしを見つめてこう言った。
「だからこそ、君を連れては行けないのです」
 涙は出てこなかった。
 その代わり、何故だか口許に笑みの浮かんだような感覚がした。
 わたしはずっと、この言葉を待っていたんだ。
「……分かりました」
 これでやっと、先生のことを送り出せる。これでやっと、諦めがつくから。
「でも、少しだけこうさせてください……」
 さっきとは違って、正面からその背に手を廻す。
 先生は何も言わなかったけれど、今度はわたしの気が済むまで好きにさせてくれるつもりのようだった。
 やっぱり先生は少し痩せている。
 向こうでも先生はちゃんと三食ご飯を食べられるだろうか。忙しいからといって、食事を抜いたりしないだろうか。解放軍のご飯は、わたしが作るのよりも美味しいのかな。そのせいで、戦争が終わっても先生が帰って来たくなくなってしまったらどうしよう。そんなくだらないことばかりが、頭の中をぐるぐると回っていた。
 わたしは、先生が好きで好きで仕方がなかった。
 決して応えてくれないと分かっていても、それでも好きでどうしようもなかった。
「……ねえ先生、一つだけお願いがあるんです」
「……何でしょう?」
「先生の言う通り、わたしはここに残って子供たちの面倒を見ます。ここで、先生の帰りを待つことにします。だから……」
 腕を緩めて、少しだけ身体を離す。
「だから、帰ってきたらまた……今までみたいに、わたしを弟子として愛してくれますか?」
 見上げた先で、先生は優しく微笑んでいた。
「……約束しましょう」

 それから数日後、トラン湖の城へと向かう先生をわたしはカクの港から見送った。
 先生がいない分だけ忙しくなった教室での日々は、わたしの気を紛らせてくれるのには十分だった。幼い子供の中には先生の不在を寂しがって泣くような子もいたけれど、ひと月も経つ頃にはそれもなくなって、みんなそれぞれ先生から出された一年分の宿題にひいひい言いながらも向き合うようになっていた。
 留学先から妹弟子が戻ってきたのもその頃で、アップルは事情を知るとすぐに先生を追って解放軍の城へ向かった。何も知らない彼女はセイカを離れようとしないわたしを不思議に思っていたようだったけれど、結局わたしがそこへ足を運ぶことは一度もなかった。
 だって、それは先生とわたしとの約束だったから。
 わたしがもう一度先生の側にいられるようにするための、約束だったから。

 ――それが果たされる日は、ついに来ることはなかったけれど。


 ***


「久しぶりだな」
 グレッグミンスターの霊園で、思いがけず見知った相手に出会った。
「……シュウ」
 最後に顔を合わせたのはあの人の葬儀の時だったから、約三年前ということになるだろうか。
 その時も、彼とはしばらくぶりの――彼が破門されて以来の再会になったはずだけれど、でもその時には今ほどの違和感を覚えたりはしなかったように思う。違和感といっても不快な種類のそれではない、けれど今のシュウは、わたしの知っているかつての彼とは違う雰囲気を持っていた。
 どこかあの人を思わせるようなそれは、戦場に立って幾千もの死を目の当たりにしてきた人間だからこそのものなんだろうか。
「こんなところにいていいの? 軍師殿」
 この男が自分に利があるとも思えない戦争に手を貸すなんて、どういう風の吹き回しなのかは分からない。
 けれども彼が都市同盟軍――今はデュナンと名乗っている軍の正軍師として、ハイランド王国との戦争に真正面から関わっているということは事実だった。このトラン共和国はデュナン軍と同盟を結んだばかりで、三年前の解放戦争にも関わったバレリア将軍率いる部隊がそこへ出向中なのだと聞いていた。
 それもこれも、わたしには関係のないことだけれど。
「今は目立った動きもなさそうだからな。それに……そうだな、天啓に導かれたとでもいうところか」
「シュウでもそんなものを当てにするんだ」
 まあなと軽く笑いながら、かつての同門は膝を折って師の墓前に花を手向ける。それに倣って、わたしも彼の隣で身を屈めた。
 亡骸をどこに埋葬するか、という話になったとき、一部ではセイカに墓を建てたらどうかという意見もあったらしい。結局はここグレッグミンスターにあるシルバーバーグ家の墓に入るということで落ち着いて、今でも平和への立役者として尊ばれている解放軍軍師の墓参に訪れる人は多かった。
「ねえ」
 墓銘を見つめたまま、わたしは口を開いた。
「先生は最後まで、戦うことに疑問を持っていたって」
「ああ……。先生らしいな」
 いかなる理由があろうと、人の命を殺めることは間違いだと思ってきた。
 その自分が戦争を指揮し、多くの命を奪った。自分は本当に正しかったのだろうか――。
 それが、あの人の臨終の言葉だったのだという。
 力を使わずにいることは罪なのか。多くの犠牲を出さずには成り立たない力は罪ではないのか。
 一度は隠遁の道を選び、そしてそれを間違っていたと言ったあの人も、結局その答えを証明することは出来なかったのだ。
「こうやってこの国に平和は戻ったけど……先生は本当にこれを喜んでるのかな」
「……」
「だって、あの人はそのために一番見たくなかったものをたくさん目にしたのよ。あなたがいくら表舞台に戻れと言っても耳を貸さないくらい、あんなに戦争を嫌っていたのに。なのに先生は、」
「……止めておけ」
 彼に答えを求めていたわけでもなければ、中身を考えながら話していたわけでもなかった。ただ勝手に、言葉が口を衝いて流れ出していた。
 わたしを遮った静かな声は、もう聞きたくない、と言っているかのようだった。
「いくら考えたところで、故人が答えをくれるわけでもない。……ただ、」
 シュウは言葉を切った。
 そうしなければならないような気がして、わたしは兄弟子の顔に視線を移す。彼の方は、未だ正面を向いたままだった。
「……もしその手掛かりが見つかるかもしれないと思うなら、おれについて来ればいい。かつて先生が立ったその場所に、お前も立ってみればいい。そこで先生が見ていたもの、その一部でも感じられるかどうか……それはお前次第だ。保証してやることは出来ない。……まあ、言うなれば賭けのようなものだな。代償は大きいが……」
 一つ一つ次の言葉を探すようにして語る横顔に、似ていないはずのあの人の面影が浮かんでは消えた。
 誰より優秀だった兄弟子のその目は、何を映してきたのだろう。
 尋ねても、きっと答えは得られないような気がした。
「……どうする?」
 わたしは首を横に振った。
「……そうか。それがいいのかも知れないな」
 心なしか、彼がほっとしたように見えた。

「さて、おれはもう行くよ」
 動きがないとはいえ、同盟軍の頭脳が長い間その席を空けるわけにもいかないのだろう。シュウは立ち上がって、コートの裾を軽く払った。
「天啓なんてものも、案外捨てたもんじゃないのね。……シュウに会えて良かった」
 わたしの方はもう少しこの場所にいるつもりだったけれど、兄弟子の背中を見送るため、同じように身体を起こす。
「それじゃあ軍師殿、どうかご武運を」
「ああ。お前も達者でな」
 片手を上げて歩き出したその背は、あの人のそれよりもだいぶ頑丈そうだ。
 再び戦地に赴く彼は、きっと戦うことを迷ったりはしないだろう。それが罪であろうと何であろうと、業も苦しみも背負うだけの強さが彼にはある。それが幸せなことなのか、それともその逆なのかは、恐らくわたしには永遠に分かりはしないのだろうけれど。
 もしもあの人が、シュウと同じだけの強さを持っていたとしたら――。
 頭を振って、浮かんだ考えを捨て去った。これほど詮無いことはない。だって、仮にそうだったなら、それはもうわたしの愛したあの人ではないのだから。

「ナマエ」
 不意に、シュウが足を止めた。
 彼は前を向いたままだった。俄かに風が吹いて、緩く束ねられた彼の長髪を揺らした。
「……おれは時々、お前が羨ましかったよ。先生のお前を見る眼差しは、他の誰に向けるそれとも違っていた」
 彼は再び歩き始める。
 最後まで振り返ることはないまま、やがて足音は消え、その背中も遠く景色の向こうに消えていった。
 わたしは改めて墓標に向き直った。
 立っていられたのは、それまでだった。

 目の前に刻まれた銘は、もう読むことが出来ないほどめちゃくちゃに滲んでいた。