Aa ↔ Aa
蝉時雨
あの日強引に押し付けられた熱を、今でもまだ持て余している。
頭から爪先まで、身体中を浸蝕するように広がった温度はいつまでも融けていかないまま自分の中に残っていた。
いっそこの身を焼き尽くしてくれるほどに暴力的なそれであればよかったのかもしれない。けれども、彼という男はどうしたって優しすぎた。
髪をかき上げれば、刻まれた痕跡が鏡の中に現れる。
ひとひらだけ散った赤い花弁を、ナマエは指先でそっと辿った。
有りもしないものを、たとえ有ったとしてもどうにもならないものを求めて旅立った異世界から帰ってきたあの日。半ば自棄になったように諦めとも取れる言葉を吐いた自分が、あの男の引き金を引いてしまった日。
何かが瓦解する音すら聞けないうちに、身体は冷たい石の床に組み敷かれていた。視線を逸らすこともままならず、ただ呼吸を奪われるまま、何度も何度も唇に熱を押し付けられて、そうして首筋に歯を立てられて。その後は。
――その後は、何もなかった。
抵抗らしい抵抗をした覚えはない。拒絶を口にする間も与えられなかったのではあるが、それにしたって暴れたりなどはしなかったし、本能的な恐怖すら感じなかったような気がする。或いはこのまま流されてしまってもいい、と思ったのか。――もしかすると、男もそんな捨て鉢な態度を感じ取ったのかもしれなかった。だから彼は、そこで行為を止めたのかもしれない。
済まない、と一言告げてナマエの身体を抱き起こした後、男はそれ以上何も言わずに部屋を後にしたのだった。
あの男の気持ちなど、分かっていたのだ。
ふとした瞬間、上官に捧げる想いの虚しさに苛まれるときも、振り返った先にはいつもあの男がいた。彼が自分を見つめる瞳の奥、そこに燈るものに気付かずにはいられなかった。
正直に言って、向けられる想いには救われていたし、嬉しかった。罪悪感を覚えながらも、あの男の傍は居心地が良かった。けれども、彼には応えられないと思っていたから。それまで心を占めていたのは、あの男ではなかったから。だから知らない振りを続けていた。上官への思いを捨てられない以上、自分を好いたところで彼にとって何にもならない。そうするくらいなら他の誰かを求めた方がずっといい、と。そのくせに、その言葉が自分自身に返ってくるのが怖くて、口に出すことはいつまでも出来ずにいて。
そうして招いた結果があの様だ。
あんなことをさせてしまったのは、不毛な思いを引きずりながらただ甘えるばかりだった自分の所為に他ならない。
メルヴィスのことだ、きっと自分を傷つけたと思って、あれ以来自責の念に駆られているのだろう。それ以上に傷ついているのは彼自身の方だというのに。
苦虫を噛み潰したような声で「済まない」と言いながら、平生からあまり顔色を変えないあの男が垣間見せた苦しげな表情。
それが頭から離れていかない。
別世界に逃げを求めた自分とは違って、同じ世界を生きるこのナマエというどうしようもない女でなければいけないのだと彼は言った。
突き刺さったその言葉をあれから何度も反芻して、今は思う。
あの男に――メルヴィスに応えたい。寂しさを紛らせるために縋るのではなくて。心から、彼の気持ちに応えられるようになりたい。
上官を簡単に忘れることなど、出来るはずもないけれど。それでも、どれだけ時間がかかってでも、想いを断ち切らない限りはメルヴィスも自分も幸せになれない。だから。
「……何用か?」
足音に反応してこちらを振り返るなり、男はそう言った。
一人城外で鍛錬に励んでいてくれたことが、今はありがたい。詰所から彼を連れ出すようなことになっていたなら、自分たちの間の空気のせいで周りの人間にまで余計な心配を掛けてしまっていただろうから。
「あんまりな言い草ね」
あれからしばらく、メルヴィスとは言葉を交わすどころか顔を合わせることすらしていなかった。
恐らく彼の性格を考えるに、自身の行動に対する慙愧のあまり、もうナマエの前には姿を現すべきではないなどと思っていたのではないだろうか。自分の方も、気持ちの整理がつくまでには随分と時間がかかってしまっていた。
だからこそ、こうして会いに来たことの意味を全て伝えなければならない。その先にあるものが、何だったとしても。
「……貴殿は俺を恨んでいないのか」
「恨むわけなんかない」
まるで脊椎反射のように言葉を返す。
こちらの方が余程恨まれて然るべきなのではと思ったが、この男が決してナマエに対してそういう感情を抱かないということももう知ってしまっている。
「……だって、わたしだって本当は分かってるもの。今のままじゃいけないって」
首を上向けなければ視線の合わない距離にまで歩を進める。それから小さく息を吸った。
「ねえ」
木々のざわめきが止んだ空間に、自分の声だけが響く。
「わたし、あなたのことを好きになりたい」
男は目を見開いた。
それから、何を言っているのかと問いたげに眉を潜める。こちらはもう、笑って返す余裕もない。
「あなたと幸せになりたい」
今までは違った。今までは、「あなたに幸せになって欲しい」だった。だから自分のことなど心から追い出してくれればいい。そうして他の誰かを、彼を一番にしてくれるような誰かを好きになって、幸せになってくれればいいと、そう思っていた。けれど、これからは。
男は黙ったまま自分の話を聞いている。ナマエの方も、もう言葉を止められる気はしなかった。
「……でも、一人じゃまだ出来ないから、」
これからは、二人で創る道を歩きたい。今更そんなことを言うのは虫が良すぎるのかもしれない。
「一人じゃ、アスアド様への気持ちを思い出に出来ないから」
しかも、どれほど時間が必要なのかも分からない。もしかしたら、幾年も先まで忘れられずにいるかもしれない。
「ひどいこと言ってるのも、分かってる、けど……っ」
それでも、報われない想いを綺麗な思い出に変えることが、未来への礎にすることが出来たなら。その時ようやく、彼も自分も本当に幸せになることが出来るのだと。
「わたしを助けてくれるのはあなたしかいないの。あなたに助けて欲しいの……!」
そう信じずには、いられなかった。
視界が歪んだのは確かに涙のせいだ。
一面の黒を残して光を遮ったのは、男の腕だった。
「……泣くな」
ぽつり、降ってきた声が耳元の空気を震わせる。
「……貴殿は本当に困った人だな」
もっと責めてくれたらいい。もっと酷い言葉で詰ってくれたならいい。けれども彼はそうしない。この男がナマエに誰より心を砕いてくれているかなんて知っている。だから自分はずるい。
――この腕の温かさに、もう安堵している。
「今更俺に遠慮する必要がどこにある?」
「……!」
「あれほど躱してくれておいて」
静かな声には呆れたような笑いが混じっている。回された腕の力が緩み、少し開いた距離から藍色の双眸が自分を捉えた。
「……苦難の道など、元より承知の上だ」
込み上げてくるものに視界は再び輪郭を滲ませて、目の前の瞳の中に映る自分の顔もついに分からなくなる。それでも、涙で滅茶苦茶になった顔をしながらも、この時確かに自分は微笑んでいたのだった。
今まで目を背け続けてきたその手を取ったとき、歪んだ二本の平行線は遠く緩やかな交叉路に変わったのかもしれない。
この先もきっと自分は彼を傷付けてしまうだろう。届かないひとを思って泣くかもしれないし、この日の選択を後悔することもあるかもしれない。
簡単に前に進むことなんて出来るはずもない。答えを出すまでには途方もない道を往かなければならない。けれど、たとえそれが一歩ずつでも、半歩ずつだとしても、これから自分たちは、重ねた手をそのままにずっと歩いていくのだろう。
宿ったばかりの小さな灯火が、心を全部埋め尽くしてくれるまで。