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イドラの涙

「やっぱり無理……!」
 いったいあと何度、同じ言葉を口にすれば気が済むというんだろう。
 二人で柱の陰に身を隠したまま、もう数十分は経とうとしている。こうなることを予期して早くからここで待ち構えていたのは正解だったけれど、それでも時間の余裕は全然足りなかったらしい。柱の向こう側に小さく見える彼のことも、もうすぐ十分は待たせてしまう計算になる。
 臆病な少女が雀の涙ほどの勇気を振り絞って、一世一代の大勝負を仕掛けるべく想い人を呼び出した、そこまではいい。
 そこに至るまでにも大変な苦労があったということは言うまでもないけれど、それに関しては今は置いておくことにしよう。そうして呼び出したはいいけれど、勝負の直前になってナマエはこの通り二の足を踏み続けているのだった。背中を押して――埒が明かなくなってからは物理的に押して、なんとか一歩を踏み出させてはみても、彼の姿が視界に入った途端にその足は元の位置へと戻ってしまう。そんな愚行を、ナマエはさっきから呆れるほど繰り返していた。
「どうしようミーネ、手紙なんか渡すんじゃなかった……」
「今更何を言っているのよ。弱音を吐かないの!」
「でも……」
「いつまでそうして彼を待たせるつもりなの? あんまりグズグズしていたら、何を言う前に嫌われちゃうわよ」
「……!」
 単なるたとえ話だというのに、思いっきり絶望したような顔をする。
 わたしはこの日もう何度目とも知れない溜め息を吐いた。
「……ナマエ、いい? あなたはわたしが見込んだ子なの。だから、自信を持ちなさい?」
 両肩に手を置いて、噛んで含めるように告げてやる。
 大きな瞳に揺れる迷いを晴らすように、その双眸をじっと見返した。この子を落ち着かせるには、こんな風に幼子に言い聞かせるようにしてやるのがいい。こうするとあまりにも真剣に耳を傾けてくるものだから、その様子には思わず笑ってしまいそうになるのだけれども。
「うん……でも、駄目だったら慰めてくれる?」
 駄目だったら、なんてそんな事を考えても意味なんかないのに。
 この鈍感な子に限っては少しも気付いていないけれど、彼がナマエに向ける眼差しを見ていれば、それが無用の心配なんだということは誰にだって分かる。
 それに、もしも彼がナマエの好意を受け取らないような不届き者だったら、わたしがとっくに懲らしめてやっているもの。
「……仕方がないわね。いいわ、仮にそんなことになったら、一晩中あなたの泣き言に付き合ってあげる」
「ありがとう! ミーネ大好き!!」
 何の躊躇いもなく、ぎゅうと抱きついてくる。
 彼にもこれくらい気安く触れられたなら、すぐにでも上手くいくというのに。この子ときたら、どうしてこうも面倒に出来ているのかしら。
「……はいはい」
 面倒に出来ているのは、わたしも同じなのだけれど。
 こうして呆れた風を装いながらも、軽く抱き返すように添えた自分の腕はこのままこの子を離したくないと言っているのだ。
 まるで妹みたいな少女から底無しに注がれる信頼に応えることが、わたしの喜びだった。けれど、それだけでは物足りなくなってしまったのはいつからだっただろう。
 今やわたしが欲しているのは、この子が彼に向ける想いそのものだった。
 そうと知ったなら、この子は一体どんな顔をするだろう。もちろんわたしがそんな失態を犯すはずもないのだから、ナマエがこの気持ちに気付くだなんてことは起こり得ない話ではあるけれども。
 結局わたしは、いつまでもナマエの言うところの"頼れるかっこいいミーネ"でいる他はないのだ。
 そんな人なんて、本当はどこにもいないというのに。

 今まで誰よりこの子のそばにいたのはわたしであって、誰よりこの子を笑顔にしてきたのもこの子の笑顔を守ってきたのもわたしなのであって、誰より正しくこの子を助けられるのもわたしだけで、だからわたし以上にこの子を理解出来る人間なんていないのだと思っていた。
 けれど、わたしが頼れる存在であることを必要としていたのは、ナマエではなくわたし自身の方だったのだ。
 わたしが導いてあげなければいけないはずの相手は、いつの間にか一人前の恋をしていた。大切な友達と大切な想い人は、もう同じ人間が引き受けることは出来なくなっていて、ナマエはわたしではない人に抱きしめられることを夢見ている。
 自分だけのものだと信じていた場所が少しずつ奪われていくことに手を貸したのは、他でもないわたし自身だった。
 だって、それがこの子の望みなのだと気付いてしまったから。この子の願いを叶えてやる以外の選択肢なんて、そんなものを選べるはずなんかなかったから。
 いっそ何もかも彼に押し付けてしまうことが出来たなら、こんな思いはしなくても済んだのかもしれない。
 それでも、何も知らない困った子は右手を彼に明け渡しながらも、わたしと繋いだ左手を決して離そうとはしてくれなかった。

「ねえ、わたし男だったら絶対ミーネに惚れてるよ」
「……」
 わたしとしたことが、つい言葉に詰まってしまった。
 無邪気に緩むその頬を、抓ってやりたい、と思う。
 こっちの気も知らないで、そんなことを何でもなさそうに口にするだなんて。彼相手にはあんなに躊躇っていることを、どうしてわたしには簡単に言えてしまうのよ。
「優しいし可愛いしかっこいいし、頭もいいしそれに……痛っ!」
 腹が立ったから、本当に軽く抓ってやった。
「ちょっと、な、なに!」
 ――だって仕方がないじゃない。
 わたしの方が、ずっとずっと痛いんだから。
「バカなことを言っている場合じゃないでしょう。ほら、彼が待っているんだから、頑張って行ってくるの! 大丈夫だって言っているんだから、わたしを信じなさい」
 "頼れるかっこいいミーネ"の顔を貼りつけて、そう言ってやる。
 自分に自信の持てないこの困った子も、かっこいいミーネの言うことなら手放しで信じてしまうことをわたしは知っているから。
 ナマエは頷いた。
 そうしてようやく――踏み出した足をついに引っ込めることなく、一歩ずつゆっくりと、けれども確かに、想い人に向かって歩き出したのだった。

「……バカな子ね」
 だから、初めから大丈夫だって言ったんじゃない。
 遠巻きに見える幸せそうな二人に、胸がじんと痛む。
 それでもかっこいいミーネは攫われてしまったあの子を想って泣いたりなんかしないし、緩みきった顔を下げて戻ってくるであろうあの子に労いの言葉を掛けてやらなければならないのだ。
 本当に、バカなんだから。
 あんな男よりもわたしの方が、何百倍だってあなたを幸せにしてあげられるはずなのに。