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スカーレット

「ナマエさん」
 掛けられた声に振り向くと、そこには物腰穏やかな学者の男が立っていた。
「ムバルさん? 珍しいですね、こんな所でお会いするなんて」
 今、自分たちが立っているのはレーツェルハフト城の広場。
 この場所で彼と顔を合わせるのは、おそらく初めてであるように思われた。
 自分の方が書の部屋に出向くようなことはしばしばあるのだ。と言っても何か用事があるというわけではなく、あの部屋の落ち着いた雰囲気がどうにも気に入ってしまったというだけである。彼は彼で研究に熱中している場合が多いため、茶を淹れたり気分転換の相手になったりする以外は、本当に何をするでもなくのんびりと過ごすというような調子だった。
 それはともかくとして、彼はここに何か用事でもあったのだろうか。
 休憩がてら散歩に来た、とでもいうのなら、付き合いたいのが正直なところだった。生憎とそれは叶わないのだけれど。
「これからお仕事に行かれるのですよね?」
「そうなんです。……って言っても、今回のはたいしたことなさそうなんですけどね」
 受けた依頼は、魔物退治という単純なものだった。
 だからと言って手を抜くつもりも気を抜くつもりもないけれど、手練ばかりが揃った編成ではきっと何の問題もないだろう。早めに準備を終えてしまった自分は、同行者の支度が出来るのをこの広場で待っているというわけだ。
「ムバルさんの方は、研究はひと休みですか?」
 聞けば、男は笑って首を振る。
「いえ。実は、あなたに用があったんです。出発に間に合って良かった」
「? わたしに?」
「はい。ナマエさんに渡したいものがあって」
 言いながら、彼は懐に手をやった。
 いい歳をして情けない話だが、何かが貰えると聞かされては子供のように興味を引かれてしまう。つい覗き込むように首を傾けると、苦笑が返ってきた。
「期待はしないでください、ただの石ですから」
 そうして、男が取り出したもの。
 それは確かに石に類するものではあったが、そう呼んでしまうにはあまりにも美しかった。
 深く澄んだ紅い色はどこか神秘的で、太陽の光を吸収して湧きあがるような光彩を放っている。形こそいびつであるものの、大きさはその辺りに落ちている小石ほどもあった。
「これ、宝石なんじゃ……?」
 ルビー、ではないのだろうか。そういった方面は全く詳しくないために見当もつかないのだが。
「そんなに大層なものでもありませんよ」
 相変わらず男は笑みを崩さないままだ。
 手を取られ、上向かされて持ち上げられたそこに、彼いわく「ただの石」が乗せられる。密度が大きいのだろうか、見た目以上の重量感があった。
「お守りのようなものだと思ってくだされば結構です」
「でも、いいんですか? こんな綺麗な……」
 まさか、こんなものが出てくるとは思わなかった。
 出発に間に合って云々と言っていた辺りで、てっきり薬の類を想像していたのだが。
 自分にとっては十分すぎるほど大層なものである。困ったように男の顔を伺えば、笑みを湛えた表情はどこか真剣なものへと変わっていた。
「ナマエさんに、持っていて欲しいんです」
 はっきりとした声で告げられる。真っ直ぐに見つめられて、思わずどきりとしてしまった。
 そこまで言われては、断る理由もない。それに、
「分かりました、大事にします。ありがとう、ムバルさん」
 つい今までは驚きの方が勝っていたが、男が自分のためにこんなものを用意してくれたことは本当に嬉しかったから。

 やがて、エントランスの方からまとまった足音が聞こえてくる。
 皆の準備が出来たのだろう。最後にもう一度だけ石への感謝を述べてから、そろそろ出発することを男に告げた。
「どうかお気を付けて」
 気遣わしげな声音。それが単なる挨拶ではなく心からの言葉だというのが伝わって、ナマエは自然と気合いを入れ直した。
「はい、行ってきます」


 ***


 その晩、一行は小さな町に宿を取っていた。
 思った通り、魔物退治は何事もなく終えることが出来たが、城に戻るにはもう時刻も遅かったのだ。
 テーブルに肘をついてぼんやりとしながら、相部屋のミーネが入浴を終えて戻ってくるのを待つ。なんとなく手持ちぶさたで、手の中で紅く輝く石を転がしてみた。
「お守り、か……」
 今日の戦いでは、いつもより調子が良かったような気がした。
 霊力の類はそれほど信じている方でもないが、もしかすると男から受け取ったこの石のおかげなのではないだろうか。そんな考えが頭を過ぎった。単に自分がそう思いたいだけなのかもしれないけれども。
 しばらく指先で遊んでいるうちに、ガチャリとドアの音がした。ミーネが浴室から戻ってきたのだ。
「ナマエ、終わったわよ――あら?」
 こちらに来るなり、彼女は何かに気付いたような声を上げた。どうやら手の中の石に目を留めたらしい。
「それ、もしかして真紅の晶石じゃない?」
「しん……何?」
 向かいの椅子に腰掛け、品定めするような視線を石へと向けてくる。
 彼女の口から「やっぱりそうだわ」という言葉が出てくるまでに、さして時間はかからなかった。
「真紅の晶石。知らないで持ってたの? これ、東の大陸でしか採れないのよ」
「そうなの?」
「ええ。ライテルシルトでは時々出回ってるのを見かけたけど、こっちで入手するのは難しいはずだわ」
「へぇ。……もらって良かったのかな、わたし」
 小さく呟いて、名を知ったばかりの石に視線を落とす。
 受け取ったものの価値を聞かされて、なんとも申し訳ない気分になった。自分に持っていて欲しいのだと彼が言うから受け取ったけれども、それほど貴重なものだと最初から知っていたなら――ああ、いや、あんな風に真剣な顔をされたら、どちらにせよ断われはしなかったのか。
 思考に没頭しかけたことに気がついて顔を上げれば、目の前のミーネは驚いたように眉を上げていた。
「もらった、ですって? ナマエ、あなた恋人いたの?」
 今度はこちらが驚く番だった。
「ミーネってば急に何言い出すの。いるわけないでしょ? そんなの」
「だってその石、恋人や夫婦の絆を強くする、って言われてるのよ?」
「え……!?」
 名前すら知らなかった自分にとって、それは当然初耳なわけだけれども。
 男の方は、どうだったのだろうか。
 この石をくれたのは単なる偶然なのか、それとも言い伝えを知っていてのことなのか。
 異国の宝石にまつわる眉唾物の話になんて、さしたる関心もなさそうではある。……が、それはそれとしても、彼の住んでいたジャナムは東の別大陸にある国々とも交流があるのだ。それくらいのことが耳に入っていたとしても、何もおかしくはなかった。
 ――そう言えば。
 これを渡された時の、男の様子を思い出す。
 ナマエさんに、持っていて欲しんです。平生が穏やかな彼にしては、妙に語調の強い言い方だったような気がする。それから、あの視線。
 思わず頬に熱が上っていくのを感じた。
 あれは、まさか。……いやしかし、本当にお守りのつもりでくれたのかもしれないではないか。ああ、でも、ただそれだけにしてはあの態度は――。
「……なるほどね」
 呟かれた声ではっと我に返ると、ミーネがニヤニヤしながらこちらを見ている。
「み、ミーネ……?」
 おずおずと名前を呼べば、その笑みは殊更深くなってしまった。
 ……この表情は、まずい。
「それで? いったい誰からの贈り物なのかしら?」
 白状しなさい、と楽しそうに言うミーネからは、どうにも逃げられそうになかったのだった。