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アンモライトのひび
選ばれたわけではないということくらい、分かっていた。
私の他には誰もいなかった、ただそれだけのことだ。
それでも、縋るように伸べられたその手を、どうして取らずにいられただろう。
「……ここが?」
「……ええ」
目が眩むほどの陽光が容赦なく降り注ぐ灼熱の砂漠も、その地下はひんやりと冷たい空気で覆われている。
全てが黄砂に飲み込まれてしまった帝都にあって、唯一崩壊を免れた帝国魔道院の地下室。かつては共に書の研究に励んだこの場所に、私たちは二人きりで立っていた。
「……うん。なんとなくだけどね、見覚えがあるような気がする。……そう思いたいだけなのかもしれないけど」
恐る恐る、といった様子で、彼女は壁に手を触れる。その感触を確かめるかのように、描かれた模様の上を指先が緩慢に滑った。
「そっか……わたし、ここにいたんだ」
感慨深げというよりは、どこか虚ろな声音だった。
失われた国の残痕にこうして手ずから触れてみても、突きつけられた事実は簡単に受け入れられるようなものではないのだろう。私だって、あの書が見せる幻に触れていなければ、世界の融合などという突拍子もない話を信じられたかどうかは分からない。
「……変なの。あなたと一緒に働いてたってことはちゃんと覚えてるのに」
ある世界の一部が、並行して存在する別の世界に現れること。
それが、世界の融合と呼ばれる現象だった。
元の世界は、別の世界に転移する部分を除いて消滅してしまう。そして、融合先も無条件で異世界の断片を受け入れるわけではなかった。呼び寄せられた世界の一部を同化するには、元々そこに存在していた領域を消してしまわなければならないのだ。
融合によって失われた世界の部分は初めから存在しなかったことにされ、人々の記憶は辻褄が合うように作り変えられてしまう。
人の――それも、生きとし生ける全ての人々の記憶に直接干渉するような力なんて、それに打ちのめされた今でもやはり信じたくないという思いはある。けれども私の目の前に立っている相手が、帝都の消滅と共に記憶の中からもその存在を失ってしまったということは、紛れもない事実だった。
「疑ってた、ってわけじゃないんだけど。……こうやって実際に見ちゃったら、なんていうか、ね」
曖昧に笑いながら、ナマエさんはそう言った。
世界の融合が起こっても記憶を失わずにいられるのは、星を宿す者と呼ばれる一握りの者たちだけだった。
これに関しては、あまりはっきりとしたことは分かっていない。なぜ私がその一人に選ばれたのか、ということも含めて。
だから、仮に何か私に言えることがあるとするならば――いくら正しい世界の姿を覚えていられようが、融合を感知出来ようが、作り変えられてしまった誰かの記憶を取り戻すことばかりは星を宿す者にも到底不可能である、ということくらいだった。
「……かわいそう」
ぽつりと落とされた声は、その内容とは裏腹に何の感情も滲んでいないかのように聞こえた。
「……ナマエさん?」
「家族とか友達とか……そういう人たちって、きっとわたしにもいたと思うんだ。だけど顔も思い出せないし、いなくなったことさえわたしには分からなかった」
本当に、かわいそう。
まるで他人事のように、彼女はそう繰り返した。
「誰かが死んでも、残された人の心の中でその人は生き続けるって言うじゃない? でも、最初からいなかったことにされたんじゃ、もうどうしようもないよね」
物心がついた時にはすでに両親はいなかっただとか、育ったのは孤児院だがそれもずいぶん昔になくなってしまっただとか。
私と彼女が知り合ったのはサルサビルの魔道研究所で、レーツェルハフト城に出向する以前の私は当然そこの研究員であったのだとか。
帝国が失われて間もない頃、その記憶を確かめようと過去を尋ねた私に、彼女が語った言葉を思い出した。
第十の融合が行われたあの時、彼女がレーツェルハフト城に来ていたことは全くの偶然だったのだ。
フィルヴェーク団と帝国とは険悪な形で同盟関係を解消してしまったのだったが、リズラン様としてはやはり我々の所持する書について気になる所があったのだろう。非公式の形でリズラン様から遣わされて来たのが、本当に偶々ナマエさんだった。普段は来られないのだし、せっかくだから数日は滞在するつもりでいる。ナマエさんはそう言っていた。そして彼女が言葉通りにしているその間に、東の空は強烈な光で覆われたのだった。
――わたし、何の用があってわざわざサルサビルからここまで来たんだっけ。
無邪気な顔をして発される残酷な問いに覚えた絶望と、それでも彼女だけは失わずに済んだのだという安堵が混濁して、その時の私はどうしていいのかが分からなかった。表情を取り繕ったり偽ったりといった類は特別得手というわけでもなく、私の態度の不自然さやぎこちなさには彼女もすぐに気付いただろう。記憶は失くしても、生来の勘の良さや聡明さまでもが脅かされるわけではない。自分自身の世界の認識と我々のそれとが違っているということに、彼女が確信を持つまでに時間はかからなかった。
そしてある日、彼女は私に本当のことを教えて欲しいとそう言ったのだ。
真実を告げても、ナマエさんは決して泣いたり取り乱したりはしなかった。何も言わず、時折唇を噛みながら、最後まで静かに私の話を聞いていた。
書の見せる幻に触れることが出来ない以上、世界の融合も記憶の改竄もそれを事実と認めるだけの根拠なんて、彼女には何一つなかったはずだ。頭がどうにかなってしまったのでは、と疑われても何もおかしくはなかった。明かされた話はあまりに途方もなさすぎて、今だって彼女の中で全てに納得がいっているとはとても考えられない。
それでも、全てを聞き終えた後、彼女はもうサルサビルには戻らないと言った。
そこが自分の帰る場所ではないのなら。帰る場所がもうなくなってしまったのなら、それならここに居させてほしいと。
自らの記憶を、信じてきたものを否定され、足場を見失ってしまった彼女に求められるがままに、私はその傍らにいた。あれから今まで私はずっとそうしてきた。
ナマエさんが私の腕を取ったのは、恐らくは必然だったのだろう。何もかも失ってしまった彼女に残されたうち、最も近い場所にいたのが私だったから。フィルヴェーク団の中で、以前からそれなりに気安い付き合いのあった人間は私しかいなかったから、というだけで、それ以上の理由なんて何もなかったのだと思う。
けれど、私はそれでもよかった。
彼女が私を必要としてくれるだけで十分だった。
「……気のせいかもしれないんだけど、」
「……? はい」
「大事な人がいたような気がするの。家族でも友達でもなくて、もっと別の」
――彼女の隣は、今も昔も私が憧れ続けていた場所だったから。
「……ああ、ムバルさんも知ってるんだ?」
動揺を隠すことも出来なかった私を見て、ナマエさんは小さく笑った。
「……すみません。いつかはと思っていたのですが、なかなか機会を見つけられずに……」
彼女が気付かなければ話す気もなかったくせに、よくもそんな言葉が出てくるものだ。
かつて彼女の側には、いつも一人の男性が立っていた。ナマエさんがどれだけ幸せそうに彼の名前を呼ぶのか、どれだけ彼を大切に想っているのかを、私は知っていた。けれども帝都と共に彼の存在はこの世界から、そして彼女の中からも消えてしまったのだと、私はそう思い込んでいたのだ。想いの断片は、まだその心に息づいていたというのに。
「……何からお話ししましょうか?」
もちろん全てを知っているわけなどではないけれど。彼の髪の色、瞳の色、声や背丈。快活な人柄で面倒見が良く、剣兵団の部隊長として多くの人間から慕われていたこと。彼女が誰より大切にしていた人の姿を、正しく伝えられるように思い浮かべる。
確かに彼は、彼女に相応しい人だった。
「……何も。何も言わないで」
私は耳を疑った。
「え……」
「その先は聞きたくないから」
わたしの代わりに、名前だけでも覚えててあげて。硬い声音で、彼女はそう続ける。
「薄情だと思われてもいい。だけど聞きたくないの」
「っ、ナマエさん……!?」
唐突に腕に飛び込んできた身体を、私は慌てて受け止めた。
肩口に顔を押し付けられて、その表情を伺い知ることはもう出来ない。添えられた手が、上袖の弛みをぎゅうと握りこんだ。
「……本当のことを教えて、って言ったのはわたしだけど……でも、もう疲れちゃったよ」
自分の記憶が偽物だと思い知らされるのが、どれほど受け入れがたいことか。
くぐもった声で力無く呟かれるその訴えに、身を切られる思いがした。どんなに想像してみたところで、私に彼女と同じそれを感じることは出来ないのだ。
見たことも行ったこともないはずの場所は経験として頭の中に刻み込まれていて、鮮明に思い描くことすら出来るのに、本当に知っていたはずのものは何も思い出せない。そのくせ霞のような残滓ばかりがこびりついているような感じがして、それがとても苦しくて不愉快で、耐えがたいほど気持ちが悪いのだと彼女は言う。
「探しても探しても見つからないものを諦めるのは、いけないことなの?」
真実を告げたことは、もしかすると間違いだったのかもしれなかった。
あの時、何も知らない振りをして彼女をサルサビルに帰していればよかったのかもしれない。いくら本人が望んだこととはいえ、こんなに苦しめることになると分かっていたならば。
「何が本当なのか分からない過去より、嘘じゃないって信じられる未来の方がいい。……ねえ、あなたたちはそれを守るために戦ってるんでしょ?」
――だったら。
彼女は顔を上げた。
「わたしの側にいて欲しい」
今にも泣き出しそうな瞳が私を見上げている。
告げられたその言葉をまさかと思う一方で、小さな声はそれでもはっきりとこの耳に響いていた。こちらはもう、瞬きも出来ない。
「届かない思い出はもういらない。だから、これからあなたと一緒に見るものは、全部本物なんだって保証してよ……!」
その手を振り払うことが、私に出来るわけもなかった。
私は彼の代わりにはなれないはずなのに、憧れて止まなかった場所は今自分のものになろうとしていて、かつてここに立っていた人の名前は永遠に行き場を失くしてしまったのだ。
決してこんな形を望んでいたわけではなかった。しかしこんな形でもなければ、私が彼女に触れることなんて叶わなかっただろうとも思う。
「……私で、いいんですか?」
「……うん」
相変わらず袖を握りこんだままの指に、一層力が入ったのが分かる。
馬鹿げた質問を一瞬だけ後悔するも、今はもう何も考えないことにして、震える背中にそっと腕を回した。
「……分かりました。あなたがそう望まれるなら、私には願ってもないことです」
ごめんね、と呟き落とされた言葉は、誰に対する何に対する謝罪だったのか。
推して知ることも出来ないそれを、私は聞こえない振りをして閉じ込めた。