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変わらないもの
『貴女の目には眠りが訪れ、胸は平和に安らぎますよう! その眠りにも平和にもなり、貴女の傍らにいることが出来たなら!』
数時間前に上演され、大成功で幕を閉じた有名な悲劇。
主人公の最後の言葉を思い出しながら、まさにそれを演じていた男の前で、ナマエは小さく溜息をこぼした。
観客からは当たり役だと大絶賛、もうロミオ役はパーシヴァル様しかいないと黄色い声を浴び、次の公演の主役も打診されているという活躍ぶりには感心を過ぎて呆れてしまう。周りも周りで、彼の本業は騎士だということを忘れているのではないだろうか。
どちらにしても、幼い頃の彼を知る自分としては実に面白くなかった。
村を出てからどうにも気障ったらしくなってしまった男には、確かに似合いだと言わざるを得なかったが。
「……パーシィのくせに」
「どういう意味だ?」
小さく呟いたつもりが、聞こえていたらしい。
テーブル越しに顔を覗き込むようにして、面白そうに問うてくる様がなんとなく気に入らなかった。男がこんな仕草をするなんて、この城に来て初めて知ったことだ。
「誉れ高き疾風の騎士様は、劇に戦に大活躍だと思っただけ」
「ほう? ナマエ殿にそう言って頂けるとは光栄だ」
「なにがナマエ殿よ、まったく」
皮肉をさらりとかわされて、こちらは心底不機嫌だ。
男が村を出て数年、思いがけずこの城で再会して、それでも文字通り多忙を極めていた彼とゆっくり話す時間がようやく取れたというのに。
「随分ご機嫌斜めのようだな、お嬢さん」
……誰のせいだ、誰の。
余裕たっぷりの笑みがやはり気に食わなくて、テーブルに置かれたワイングラスに目を落とした。が、男の不躾な視線の方は、自分から少しも逸らされていないのが分かる。俯いたまま文句を言ってやろうと息を吸い込むも、先に口を開いたのは向こうの方だった。
「しかし、ナマエ殿は本当に綺麗になられた」
「……そんなこと言われたって嬉しくないわ」
「強情なところも御可愛い」
「嬉しくないってば!」
「怒った顔も一段と素敵で――」
「パーシィ! いい加減にしてよ!」
それ以上我慢出来ずに、顔を上げるのと同時についテーブルを叩いてしまった。男は芝居がかった仕草で肩を竦めてみせた。
「……村を出て行ったかと思えば、まさかこんな女たらしになってるなんてね」
本当に幼い頃から、一緒に育ったはずなのに。
周りの少年たちよりは幾分か大人びていたパーシヴァルだったが、それでも澄ました顔で「可愛い」などと言うような男ではなかった。
村を出てから、彼は何をしていたのだろう。どんなものに触れ、どんなものに囲まれ、どんなことを考えていたのだろう。
「おや、女たらしとは心外だ。俺の心は、今も昔もただ一人貴女の傍にあるというのに」
自分は何も知らない。知らないから寂しい。
今の彼は、誰より仲が良かったはずの彼ではないような気がして。
――寂しかった。
彼の帰るべき場所は、もうあの村ではないような気がして。
「嘘吐き」
酒の所為もあるのだろうか、何故か涙が出てきそうになってしまう。
けれどもそれを男に気取られるのだけは絶対に嫌だった。どうしようもなくて、ナマエはテーブルに突っ伏した。
暫し、沈黙が流れる。
やがてそれを打ち破ったのは男の方だった。
「……参ったな。本心だったんだが」
溜息混じりの声の後に、ガタンと席を立つ音がした。
いつまでもこんな調子で不機嫌な自分に愛想を尽かして帰ってしまうのかと思ったが、そうではなかった。テーブル越しにあった気配を、今はすぐ傍らに感じる。肩と肩とが僅かに触れるのが分かった。男は自分の隣に腰を落ち着けたらしい。
「ナマエ」
敬称も何もなく、あの頃と同じように名を呼ばれた。
「……」
「悪かった、少しからかいすぎた」
「……」
「お前があまりにも変わっていなかったから、つい、な」
もう、先ほどまでのおどけたような口調ではなかった。言葉の終わりと同時に、頭の上に何かが乗せられたのが分かる――男の手だろう。そのまま、ひどく優しい手つきでゆっくりと髪を撫でられた。
この感触を、自分は知っていた。
遠い記憶の中、悪戯っ子の標的にされては泣いていた自分を、パーシヴァルはいつもこうして慰めてくれていたのだ。まるで兄が妹にするようなそれは本当に心地が良くて、それだけでひどく安心出来たものだった。髪を撫でられていると、いじめられていたことも不思議とどうでもよくなっていたのだ。子供心に魔法のようだと思っていたのを覚えている。
ずるい。
そんな所ばかり、あの頃のままだなんて。
「……なによ。パーシィなんて昔は、」
昔はわたしのスカート捲って喜んでたくせに。
照れ隠しにそう口走る。涙混じりな上に篭もった声は自分でも聞き取りにくかったのに、男の耳にはしっかりと留まったらしい。
「過去を捏造しないでくれ。俺は、そうされて泣いていたお前を慰める側だっただろう?」
言葉に、つい顔を上げてしまった。
「……覚えてたの……?」
「もちろん。こうしてやれば、すぐに泣き止んでくれたこともな」
どこか誇らしげな様子で、男は微笑んでみせた。再び緩やかに動き始めた髪を撫でる手に、ナマエはそっと目を閉じる。
――ああ、もう、ずるすぎる。
涙を止めてくれるはずの手のひらに逆に泣かされることになったのは、これが初めてだ。
「……全く。泣き虫なところも全然変わってないな」
輪郭を伝って、滑るような手つきが頬を辿る。長い指に涙の滴が拭われた。
もう片方の手は腰に廻されて、そのままぐいと引き寄せられる。吐息が触れるほどにまで、互いの距離は詰められた。
「……パーシィは、もう遠くに行っちゃったんだと思ってたのに」
小さく呟けば、パーシヴァルはふっと口元を綻ばせながら緩く首を振る。
至近距離で優しげに目を細めて微笑む男の顔を、悔しいけれど本当に魅力的だと、思った。
「言っただろう? 俺の心は、ずっとお前の傍にある」
――パーシィの気障。
言葉は声になることなく、甘い口づけに飲み込まれたのだった。