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Mangeons!
綺麗に砥がれた一振りの包丁は、すっかりわたしの相棒になっていた。
今となってはミスラトサーモンを三枚に下ろすだなんて造作もないことだけれど、初めてそれをやってみろと言われたときには、まな板に乗せた魚に対して垂直に包丁を入れてしまったことを覚えている。
そんな壊滅的なセンスのなさも、もう過去の話になったのだと思いたい。
この日、今までの修行の集大成となる料理を披露すべく、わたしはレーツェルハフト城の厨房に立っていた。
腕前はマリカといい勝負、というようなわたしが本格的に料理を始めたのは数ヶ月前。
わたし自身、技術はともかくとしても料理への興味は興味は元々あった。将来のことを考えると、さすがに今のような調子じゃいけないとは常々思っていたし、戦いが終わってからは尚更そうだった。ワスタムさんがサルサビルへ行ってしまった後では、城の食堂はエリンやシスカさんをはじめ何人かが交代で担当してくれていたのだ。宿屋の仕事もあるだろうに、自分と年の変わらないエリンがいつもおいしい料理を作ってくれていると思うと、本当に申し訳なさやら情けなさやらを覚えたものだった。ただ、わたしの技術力はといえば言葉にするのもあんまりなくらいだったから、果たして手を出してもいいものかとなかなか踏ん切りがつかずにいた、というのがそれまでのところだった。
そんなわたしの後押しになったのが、同じく料理を苦手にしていたスヴェンさんがそれを克服したらしいと言う話だ。
サイナスの復興を手伝いに行っている団員曰く、ソロウさんから毎日のように愛妻弁当自慢を聞かされているのだとか。自慢というのは多分に僻みの入った言い方だろうけど、あの控えめなソロウさんがつい口に出してしまうくらいなんだから、スヴェンさんお手製のお弁当はそれだけ美味しいということなんだろう。そういうわけで、スヴェンさんをわたしと同列に扱うのは失礼だとしても、料理下手からの脱却談はわたしにとって大きな励みになったのだった。
ちなみに、以前に一度料理を作ってみた時の幼馴染たちの反応はと言えば、
『うおっ!? 何だこれ、しょっぱくて甘くて辛くて苦ぇ……!?』
『……これは……強烈だな……』
『マリカといいナマエといい、マジでオレらを殺す気デスカ!?』
『あ、あたしだってここまではひどくないわよ!』
なんてもので、こんな言葉も一種の発火剤にしつつ、わたしは料理修行を決意したというわけだ。
それからわたしは、サルサビルの王宮料理長に就任したワスタムさんのところへ押しかけて弟子入りを果たした。
初めは弟子は取らないと断られたけれど、諦めの悪さだけは自慢に出来るところで、毎日毎日続くわたしの執拗なお願い攻撃に根負けしたワスタムさんは最終的には首を縦に振ってくれたのだった。料理を教わるためだけにレーツェルハフト城からサルサビルまで一人で出向いてきたということがあったから、もしかしたらワスタムさんもきっぱりとは断りづらかったのかもしれない。
そうして始まった修行はまさに茨の道だった。まずは厨房の掃除に始まり、それから皿洗い。職人はさすがに厳しくて、すぐには食材に触らせてもらうことは出来なかった。ようやく野菜を切ったり皮を剥いたりという段階になると、途端に手は傷だらけになる。おまけに痛かったのは手だけではない。シャムス殿下の味覚はワスタムさんの腕を持ってしてもまだ矯正の途中にあって、毎日大量に使われる香辛料のおかげで目と鼻はいつもヒリヒリしてばかりだった。
ただ、以前に比べて殿下の舌が少しずつ良くなっているように、時が経つにつれてわたしの料理もやっぱり少しずつだけれどまともにはなっていったのだ。
初めは上手くなりたいということばかり考えていたけれど、余裕が出てくると心境にも少し変化があったりもした。城を出て以来ずっとサルサビルに籠りきりだったわたしに、暇を見ては会いに来てくれていた幼馴染たちに美味しいものを食べさせたい。そんな思いが修行の大きな原動力になっていたような気がする。……まあ、見返してやりたいという気持ちも無いわけではなかったけれども。
わたしが一人前になるまでは、彼らに途中経過を見たり食べたりしてもらったりはしなかった。これは"やるからには徹底的にやる"というワスタムさんの方針の一環なのだと思う。誰かに未完成な料理の味見をさせるなんてことは、彼の一流料理人としての矜持に反するのかもしれない。わたしは曲がりなりにもワスタムさんの弟子になったわけなのだし。
『ナマエ、結構頑張ってるんだなー。泣きごと言ってすぐ帰ってくるかと思ってたんだけど』
『アイツも意外と根性あるからな。帰ってきたら、おっさん仕込みの料理死ぬほど作ってもらおうぜ!』
『ああ、楽しみだな。……どうせならマリカも一緒に行けば良かったんじゃないか?』
『うーん、そうね……。あたしはナマエが戻ってからあの子に習おうかな?』
『あーうん、その方がいい! 超級の問題児を二人も抱えるなんて、いくらワスタムさんでも大変だろーし…………、あ』
『……誰が問題児ですって、リ・ウ・君?』
『ぼ、ボクハナニモイッテマセン!』
わたしのいない間にこんなやり取りがあっただなんてことも、もちろん知る由もなかった。
そして今日。
城に戻って大勢の人たちと久しぶりの再会を、幼馴染たちとは久しぶりでも何でもない再会を果たしたわたしは、休憩もそこそこに料理を始めたのである。シグはわたしのお帰り会だ、というようなことを言っていたけれど、それなら主役が料理を作るのはおかしいでしょと案の定マリカからツッコミが入っていた。マリカの言う通りで、これは進化したわたしの腕前のお披露目会なのだ。
もうどこに出しても恥ずかしくねえ。サルサビルでの卒業試験、とでも言うべき最後の課題を終えた時にワスタムさんがくれたその言葉を自信にしながら、今は最後の仕上げにかかろうというところだった。
新鮮な野菜を敷いた上に、薄切りにしたミスラトサーモンを並べる。ワスタムさんの特製ドレッシングはどうしても配合を教えてもらえなかったから、使うのは自己流のものだ。やっぱり師匠には及ばないけれど、それでも我ながらなかなかよく出来ていると思う。冷やしておいたスープは器に盛りつけて、飾りつけにハーブを散らした。皮に綺麗な焦げ目がつくまで焼いたメインのお肉にはトリュフソースをかける。オーブンの中のタルトも、いい感じに焼きあがっていた。
「ナマエー! 腹減らしてきたぞ!」
料理が全部完成したのは、シグたち四人を食堂に呼んでいた時間とほぼ同時だった。わたしが料理修業に行っていたことを知っている人は他にもたくさんいるけれど、わたしは彼らに一番初めに食べて欲しかった。
「おっ、自信満々って顔じゃねーか」
「当たり前でしょ、ワスタムさんのお墨付きなんだから!」
というわけで、テーブルに並べた本日のメニュー。
肉厚な魚そのものの味を生かした、ミスラトサーモンのカルパッチョ。
暑い季節にぴったり、喉越しなめらかなシトロトマトの冷製スープ。
外はこんがり、中はやわらかなお肉に香りのいいトリュフソースをかけた、ラパロ鳥のポワレ。
サクサクな生地にジューシーな桃をたっぷりのせた、虹蜜桃のタルト、などなど。
我ながら気取りすぎた感はある。ちょっと耳慣れない料理名に、シグからは
「おまえどこの言葉喋ってんだ?」
なんて言われてしまったけれど、せっかくの機会なんだからこれくらいでちょうどいいのだ。
「へえ、本格的じゃない!」
「気合が入ってるな、ナマエ」
「すげー、うまそー!」
「ま、うまいかどうかは食ってみなきゃ分かんねえけどな!」
そう言いながらも、シグは既に手にしたナイフとフォークを動かし始めていた。
いただきます、と四人の声が重なる。緊張も不安もなくって、わたしはみんなが料理を口にしてくれるのがただ待ち遠しかった。
「うめー!!」
――その一声に正直ほっとした、というのも、やっぱり事実なのだけれども。
「ナマエ、あんた見直したわよ!」
「ホントだよ! オレ、これほどとは思わなかったし!」
今はもう、わたしの手が作るのはしょっぱくて甘くて辛くて苦い謎の物体でもなければ、悪い意味で強烈な、殺人的なそれでもない。
こうして人を喜ばせることが出来るだけじゃなく、自分まで幸せになれるような、そんな料理。
「けど、相当苦労したんだろう? 手が傷だらけだ」
「まあうん、みんな知っての通り、わたしとことん不器用だったし。でも、痕が残っただけで今では全然大丈夫だよ」
「やっぱり大変だったの?」
「そりゃあ最初はね。だけど慣れれば慣れるほど楽しくなって……ね、今度マリカも一緒にやろう?」
「そうね! 指導よろしく、ナマエ先生!」
みんなと笑いながら、改めてもう一度気が付いたことがある。
サルサビルでの修行のエネルギーにもなっていたその思いを、久しぶりにみんなで食卓を囲んだこの時にわたしは心から実感していた。
スヴェンさんがすぐに料理の腕を上げたのも、ワスタムさんはもちろんエリンやシスカさんのご飯が美味しいのも。それは全部、食べてくれる大事な人のためを思って作っているから、なのだということを。
そしてそれが、きっと一番大切なことなんだろう。
「ところでナマエせんせー、スープおかわりー!」
「肉もな! つーかマジでうめぇ、おまえ店開けんじゃね?」
大げさなシグの言葉にも、揃って頷いてくれる。
「はいはい、好きなだけ召し上がれ!」
大好きな人たちを笑顔にすることが出来て、初めてわたしの料理は完成したのかもしれなかった。