Aa ↔ Aa

甘酸い味

「……おまえの幼馴染について聞きたいことがある」
 それは、本当に決死の思いで口にした言葉だったのに。
 目の前にいる、自分とそう年の変わらない少年は、思い切り怪訝そうな顔を返してきた。
「……はぁ? 何だよ急に?」
「何でもいいだろ!」
 確かに、自分の発言は突拍子もないものに聞こえたかもしれない。
 けれどもこれは自分にとって本当に重要な問題であって、未だ直面したことのないそれでもあって、だからこの質問の意味するところは、軽々しく誰かに口外できるようなものではないのだ。
 ……特に、この少年に吐露することはどうにも憚られた。なんとなくだけれど。
「けど、幼馴染つってもいっぱいいるぞ?」
 もっと訝られることを覚悟していたのだが、存外あっさり話す気になってくれたらしい。
 彼のこういうところを素直にありがたいと思いながらも、自分の意識は次に告がれる言葉の方に向いていた。
「誰の事だ? マリカか?」
「……違う」
「ジェイル? それともリウか?」
「……違う!」
「じゃあナマエか?」
「!!」
 名前を聞いただけで、全身に動揺が走る。
 それは目の前の少年にも易々と気取られてしまうほどだった。
「最初っからそう言えばいいじゃねーか。変なヤツ」
 変な奴とはあんまりな物言いだったが、言い返すことはできなかった。
 実際問題、彼女の名を口にすることさえ躊躇われているのだ。自分でも馬鹿ではないかと思うけれども、恥ずかしすぎてその名を声に乗せることが出来ずにいる。それが現状だった。

 ナマエと出会ったのは、帝国と訣別してレーツェルハフト城に移った後のことだ。
 裏方としてフィルヴェーク団を支えながら、彼女は誰にも分け隔てなく接していた。その笑顔を見た瞬間、びくりと心臓が跳ねたあの感じは今もまだ覚えている。要するに一目惚れというわけだ。
 剣士団の従士となってからは恋愛どころではなかったし、アストラシアが陥落してからは尚更そうだった。そもそも、ここ数年を考えれば心惹かれるような相手には出会わなかったように思われる。けれどもあの日から、鮮烈な印象が雷のような衝撃をもって心を灼いたあのときから、日増しに膨れ上がっていく感情はもう持て余してしまうほどになっていた。
 ひっくり返っても素直だとは言えない自分の性格に起因して、彼女に対しても本心から逸れたことを告げてしまうような事はままあった。
 それでも、ナマエはいつも笑って返してくれるのだ。
 活動的なシトロ村の面々の中にあっても感じずにはいられない彼女特有の柔らかい雰囲気が、自分を掴んで離してくれない。

「で? ナマエの何が知りてぇんだよ?」
「な、何でもいい」
 ……まさか、彼女はどんな男が好きなのかだなんて聞けるはずもない。
 それでは自分の気持ちをばらしてしまうようなものだ。いくらそういう方面に疎そうなシグであっても、さすがに勘付いてしまうだろう。
 これまでの発言が明らかに要領を得ていないことは自分でも分かっているが、下手に言い訳をして墓穴を掘ることにでもなったら大変だ。シグの方もやはり釈然としないような表情をしていたが、自分にそれ以上を言う気がないことを察してくれたのかもしれない。少し考える素振りを見せたあとに、彼は口を開いた。
「一人っ子」
「……」
「足が遅い」
「……」
「そんで泣き虫……いや、今はそうでもねぇか。昔はひどかったけどな」
「…………」
「あとは虹蜜桃のプリンが大好物で、それから……」
「……そういうことじゃなくてだな!」
 つい声を上げてしまった。
「んだよ、何でもいいっつったじゃねーか!」
 彼の言うことはもっともだけれど。
 実際のところ、本当にどうしたらいいのか分からないのだ。いっそのこと洗いざらい白状すべきなのだろうか。しかし相談をするにしろ、その手のことに慣れている人物の方が好ましいのは自明である。残念ながら、自分の近くにそういった相手はいなかった。
 たとえばクロデキルド。彼女は本当に尊敬する主君だけれど、あんなに分かりやすいアスアドの気持ちに気付いていないような調子では正直期待はできないだろう。かといってメルヴィスにでも相談しようものなら、「そんなことを考えている暇があったら鍛錬に励め」などと一蹴されてしまいそうな気がする。
「……つーかよ、何でいきなりこんなこと聞くんだ?」
 本当に不思議そうな顔をして聞いてくるあたり、気付かれてはいないようだけれども。
 理由なんて、たったの一つだ。
 結局一番聞きたかったことは聞けなかったが、彼女に気に入ってもらえるような男になりたい。ナマエの"特別"になりたい。自分にとっての彼女がそうであるように。
 自分は、彼女が好きだから――――
「お、おまえには関係ないだろっ!」
 改めてそれを自覚した途端、凄まじい勢いで顔に熱が上っていくのが分かった。
 ……どうやら自分も、赤毛の闘将を笑っていられる立場にはないようだ。


 ***


 昼食ラッシュを過ぎた時間だからだろうか、食堂にはあまり人気がない。
 シグの部屋のある四階から地上階までえれべーたを使わずに降りたせいではないだろうが、頭が冷えるころには小腹が空いていた。
 注文したのは先程彼から聞いたばかりの、ナマエが好きだというデザート。甘いものは特別好きというわけでもない自分だけれど、彼女の好物と聞かされては、気恥ずかしさを覚えながらも試さずにはいられなかった。
 端の席に座って待つこと数分、運ばれてきたプリンを一口食べて納得する。滑らかな舌触り、決してくどくないさわやかな甘みと、それを引き立てる僅かな酸味。確かにこれは美味だ。
「あ、いたいた」
「!!」
 不意に聞こえた声に、危うくむせるところだった。
 その大きさはさほどのものでもなかったが、がらんとした食堂では必要以上に響いて聞こえる。
 声の主が誰かだなんて、考えるまでもなかった。
「詰所にいなかったから、どこかなって思ったんだけど」
 ひらひらと手を振りながら、ナマエはこちらに近付いてくる。呆然とする自分のことなどお構いなしに、当然のようにして向かい側の席に腰を下ろした。
 にこり。
 そんな擬音のつきそうな笑みを向けられて、反射的に生唾を飲み込んでしまう。
 動揺が表情に出る前に、彼女の視線がテーブルに置かれた食器の方へと移ってくれて助かった。
「あれ、桃のプリン? 美味しいよねこれ!」
「あ、ああ……」
「一口ちょうだい?」
 返事を待つことなく伸びてきた手に、スプーンをさらわれた。
 細い指に支えられた銀色のそれが、ふるふると揺れるプリンをひとすくい。口に運ばれるまでの一連の所作をただただ目で追うことしかできないまま、結局満足気な表情まで見届けてしまって、そうして再度目が合う。そこではっと我に返った。
「あ、ごめん嫌だった?」
「べ、別にそんなことは言ってない! ……それより、オレに何か用でもあるのか……?」
 詰所にいなかった、と言っていたから。彼女が頻繁に近付くような場所でもないから、きっと探されていたのだと思う。
「用ってほどのことでもないんだけど、」
 カチャリ。小さな音を立てて、皿の上にスプーンが置かれた。
「わたしのことについて色々聞かれた、ってシグが言ってたから。ちょっと気になってね」
 その言葉には責めるような調子など少しもなくて、それどころか面白がっているような口調だったけれども。
 告げられた事実に、血の気が引く思いがした。
「……あいつ、余計なことを!!」
「よけいなこと」
 湧き上がる羞恥のままに発した言葉を彼女は繰り返す。見遣れば、
「こっちは自分の知らないところであれこれ詮索されてて、それを教えてもらったのに、『余計なこと』」
「っ!」
 ……余計に恥ずかしいやら情けないやら。
 シグのことだから、間違いなく何の他意もなかったのだとは思う。恐らく彼は自分の真意には気付いていないのだから、面白がって吹聴するようなこともあるはずはないだろう。けれど、この事態は想定すべきだったのかもしれない。そもそも彼女本人から直接聞き出そうとしなかったことからして女々しかったのだろうか。
 とうとう顔を背けてしまった自分に、ナマエは吹き出したらしい。
「ごめんごめん、意地悪するつもりはなかったの」
「……」
「機嫌直してくれる? ロベルトくん」
「くん、って言うな!」
 思いきりからかわれた。
 目の前の彼女はくすくすと笑っている。年は自分と変わらないはずなのに、もう完全に彼女のペースになってしまっていた。
「じゃあ、ロベルト」
「……なんだよ?」
「聞きたいことがあるんだったら直接来ればいいのに。なんでも教えてあげるよ?」
「次からそうすればいいんだろ!」
 絶対無理だけどな、と内心で呟きながら、自棄のような声を上げてしまう自分の情けなさ。
 彼女の前では、格好良くありたいのに。
 しかしそう思いながら、今のような調子で彼女と言葉を交わす時間に満たされているのも、多少不本意ではあるが事実だった。
 そして、それだけでは足りないと思う心があるのもまた同様。恋というのはなんて厄介な代物なのだろう。
「うん、そうして。じゃあ、わたしそろそろ行くね?」
 ごちそうさまと笑いながら、ナマエは席から立ち上がった。
 ……もう行ってしまうのか。心の中でそう呟いた瞬間、胸の奥の何かがしゅんと萎縮したのが分かった。彼女の一挙一動の度に、こうしていちいち浮いたり沈んだりしなければいけないなんて。ああもう本当に厄介だ。
 歩き出した背にかけた「じゃあな」の言葉は、思った以上に不満げな色を滲ませていて呆れたくなる。
 恐らくその声色のせいではないのだろうが、彼女は一度足を止めてこちらを振り返った。
「……からかったお詫びに、いいこと教えてあげる」
「……?」
「気になる女の子の真似してプリン頼んじゃうような人、わたしは好きだなあ」
 その意味を理解する前に、薄紅色に頬を染めたナマエは足早に駆けて行ってしまう。
 気になる女の子の真似してプリン頼んじゃうような人、わたしは好きだなあ。
 静かになった食堂、急に回転の鈍った頭で、彼女の置いていった言葉を反芻する。「気になる女の子の真似してプリン頼んじゃうような人」なんて、自分は一人しか知らない。知らないけれど、まさか。
 こんなに都合のいいことがあっていいのだろうか。浮かんだ疑念もしかし、脳に焼き付いた彼女の頬の紅さに払拭されてしまう。

 自分の気持ちは、とっくに気取られていたのだ。
 でも、もう、今となってはそんな事などどうだっていい。
 血液が沸騰するのを感じながら、残ったプリンを一気に掻き込んだ。やわらかな塊が喉を滑り降りていくほどに、こみ上げてくるような歓喜が身体中を満たしていく。空になった皿を下げるのも忘れ、見えなくなった彼女の姿を追って走り出した。
 ――口の中に広がる甘さが消えないうちに、彼女を捕まえることが出来たならいい。