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口は災いの元?

 見境がない、との評判は確かに耳にしていた。
 あの男には気を付けた方がいい。そんな言葉は、今までに色んな女の子から聞かされてきたことだった。けれども。
「待っておくれ、美しいお嬢さん!」
 まさかこの広い城内を全力で逃げ回らなければいけないことになるだなんて、わたしは彼を少し甘く見過ぎていたのかもしれない。
 追いかけっこが始まってから、どれだけの時間が経ったのだろう。わたしの体力もそろそろ限界に近付いていた。
 戦うことの出来ないわたしが、曲がりなりにも戦闘員であるその男に追いつかれるのはもう時間の問題かもしれない。どうしたらいいだろう。
 別に捕まったところでどうにかなるわけではない、ということは分かってはいるのだ。節操のなさこそ有名ではあれ、何かやましいことをしたとかされたとか、そういう話は聞いたことがない。お茶くらいには付き合わされたりするのかもしれないけれど、実害で言えばそれほどでもないのだと思う。だから、何かされることを危惧しているというよりは、単に迷惑だ、というところだった。あんまりべたべたと褒められるのも決まりが悪いというか、美しいお嬢さんだなんて言われると、正直背中がうすら寒くなる、というか。それに、追いかけられると逃げたくなるのが人の常というものだろう。逆であるような気がしないでもないけれど。
 いっそイクス共々叱責を受けてもいいから、誰かが止めてくれれば助かるのに。
 頭の片隅でそんなことを考えながら二階を走っていると、運よくちょうど剣士団の詰所の方から人影が現れた。
 クロデキルド様やメルヴィスさんだったらなんとかしてくれるかもしれない、と思ったけれど、姿を見せたのはそのどちらでもなかった。でも、この際もう誰でもいい。現れた人物――ロベルトが自分のよく知った相手であるというだけで十分だ。イクスを追い払ってくれることは期待できなかったけれど、ここは一役買ってもらおう。わたしももうこれ以上は、ちょっと走れそうにない。
 どたどたと騒々しくしているからだろう、ロベルトもすぐにこちらに気が付いて、思いっきり怪訝そうな眼差しを向けてくる。そんな視線を綺麗に流して、わたしはそのすぐ隣まで走りきった。
「あのね!」
 追いつかれる寸前というところで振り返りながら、強引にロベルトの腕を取る。
「わたしの恋人はこのロベルトなの!」
「なっ……!?」
 口から出任せ、とはまさにこのことだった。
 ぎょっとしたような声を上げる被害者のことはとりあえず無視させていただく。本来は喧嘩友達というのが一番近い関係であるところだけれど、今は我慢してもらわなければ。
「だからあなたの誘いには乗れない、分かる?」
 数回瞬きをしたあとで、見目だけは麗しい金髪の青年はやれやれといった調子で肩を竦めた。
「……仕方ない、今日のところは彼に譲るよ。こうしている間にも、他のお嬢さんたちが僕を待っているからね!」
 この男を待っているお嬢さんなんてわたしの知る限り一人しかいないと思うのだけど、まあそれについては黙っておくことにして。
「それではご機嫌よう!」
 拍子抜けするくらいにあっさりと、イクスは去って行った。
 助かった、と思うと同時に安堵のため息が出る。
 それにしても、恋人宣言がこんなにも効果を発揮してくれるとは思わなかった。あんなに必死で逃走劇を繰り広げなくたって、最初からこうしていればよかったのかもしれない。

「ああ、変なこと言ってごめんね?」
 イクスの姿が見えなくなった後で、出任せの犠牲者にしてしまった同い年の少年から腕を離した。
「あんまりしつこいから、なんとかして逃れたくて。でも、おかげで助かっ……、……?」
 ……何かが、おかしい。
 ふざけるなだとか変なことにオレを巻き込むなだとか、てっきりそういう言葉が飛んでくるものだと思っていたのに。ロベルトは、固まったように何も言わない。
「……ロベルト?」
 真横から正面とへ回って、その顔を覗き込んでみた。
 彼は呆然として目を白黒させている。わたしの言葉など、まったく耳に入っていないかのようだった。
「オレ達って、そういう関係だったのか……?」
「え?」
 とんでもない言葉が聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……いや、でも……、ああ、うん、そうだ、そうだな!」
「え、ちょっと。何を一人で納得して……」
 焦点の定まっていなかった青い双眸が、真っ直ぐにわたしを捉える。
 その向こうに、何だか期待に満ちたような光が見える気がする。
 ――もしかして。
 もしかして、これはものすごく大変なことになってしまったのではないだろうか。
「ち、違うから! さっきのはただの方便ってやつで、」
「ナマエっ!!」
 がし、と両肩を掴まれる。
 痛くはなかったけれど、わたしには到底振りほどけないくらいのものすごい力だった。それ以上に、強い視線が身を退かせることを許さない。
 ロベルトは完全に勘違いしていた。いや、確かにわたしはああ言ったけれども、それは単にイクスを振り切るための言い訳なのであって。ロベルトだって、そんなことは分かってくれると思っていたわけであって。そうでなかったとしても、わたしは今さっき方便だと言ったばかりなのであって。
 なのに、これは一体どういうことなんだろう。
「待って、ロベルト落ち着いて、」
 彼はわたしの話なんて聞いちゃいない。
 落ち着かなければいけないのはこっちの方も同じだというのに、どうしよう。わたしには、目の前で瞳を輝かせるこの男を止められる気がしない。
「わ、悪かったな、今まで言葉にしてやらなくて!」
「いや、あの、だからそれは……!」
「でも、それはおまえだってそうなんだからな! お互い様だ!」
 ぐっと肩を引かれて、距離が少し詰められる。
 焦りきった自分の顔が、彼の目の中にはっきり見えるくらいに近い。
 彼の場合どうしてもツンツンした性格の方が先を行ってしまうから、普段はあまりそういうことを意識しないのだけれども、さすがにフィルヴェーク団の誇る美少年たちと一緒に攻撃を組んでいるだけのことはあった。近くで見ればなるほど顔立ちは整っている……って、今はそんなことを考えている場合ではなくて。
「だ、だからさっきのは……」
 言いかけて、思わず口を噤んでしまう。
 それは、目の前の顔にわずかに赤みが差したように見えたから、だった。
「その、お、オレもおまえのことは嫌いじゃないぞ!」
 喧嘩友達だと思っていたのは、わたしの方だけだったんだろうか。
 今までの彼の態度を思い返してみる。果たしてその中に、そういう素振りがあっただろうか。もちろん彼が素直でないことは本当によく分かっていたけれど、まさかそんな風に考えられているだなんて思ってもみなかった。それとも単に、わたしが鈍かっただけなんだろうか。
 何より、こんなに嬉しそうにされてはもう出任せだったなどと告げられなくなってしまったじゃないか。どうしてくれるんだろう。
 そうだ、本当に嬉しそうなのだ。この表情には覚えがある。
 あの時、ファラモンで突然姿を消してしまったシグとリウとクロデキルド様の三人が無事に戻ってきた後の、あの溢れんばかりの笑顔。
 それが今、わたしの目の前で。
「大体おまえは素直じゃないんだ!」
 どの口がそんなことを言うのだろう。
 半ば呆れながらも、わたしは既に言い返す気力も弁解する気力も失くしてしまっていたのだった。
 もうこのまま流されてもいいや、と思っている辺り、わたしも満更でもないのかもしれない。