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剣と花のジレンマ
シーツの上に波打つ長い髪を、カーテン越しの月明かりがぼんやりと照らしている。
緩い倦怠感は未だ身体に纏わりついてはいたが、乱れた互いの呼吸が落ち着きを取り戻すまでにそう時間はかからなかった。隣に身体を横たえている恋人とて、歴としたハイランドの軍人である。彼女が生半可な鍛え方をしていないことなんて、自分が一番よく知っていた。
絹糸のような髪の一房を指に絡め、くるくると弄ぶ。ナマエはくすぐったそうに小さく身動きをしたが、その白い背中はこちらに向けられたままだった。
「おい、いい加減にこっち向けよ」
「……やだ」
肩越しに飛んでくる答えは、やはりいつもと変わらない。
「……ったく、強情なこった」
思わずこぼれ落ちた声にはため息が混じった。広すぎる寝台というのも少々考えものかもしれない。彼女と自分との間の微妙な隔たりに、ふとそんな思いが頭に浮かんだ。二人で使っても窮屈さを感じることのないようにと、大きめのものを用意したはずだったのだがどうにも裏目に出たような気がする。
一思いに引き寄せてしまえばそんなことは気にならなくなる、というのは承知の上だ。ただ、偶には少しばかり彼女の心を汲んでやったっていいだろう。
ナマエは自身の肌を晒すことをひどく嫌う。
彼女とベッドを共にするような関係になってから知ったそれを、初めはただの羞恥心ゆえのことかと思っていたがそうではなかった。
「貴族のボンボンが相手ならともかく、傷なんざ俺の前で気にすることじゃねえだろ」
「……わたしは気にするの」
「この暗さじゃあ、どうせ大して見えやしねえのによ」
身体に刻まれた傷跡を見られたくない。そう彼女は言う。
剣を取って戦う身である以上、多かれ少なかれ傷を負うのは当然のことであるし、それは恥ずべきものではないとシードは思っている。第一そんなことを気にしているようでは、この仕事など務まりはしないのだ。
ひとたび戦場に立てば、傍らの彼女は自分にとって信頼すべき戦友になる。軍人としてのナマエに迷いがないことをシードは知っていたし、そうでなければ彼女が剣を携えることを許しはしなかっただろう。だから、こうして彼女の中でその迷いが頭をもたげてくるのは、決まって恋人同士の時間を過ごす時だけなのだった。
「大体、そんなの比べ物にならねえほどこっ恥ずかしいことをさっきまで散々……」
「うるさい!」
おーおー怖い怖い。
声を抑えたながらも鋭い一喝に内心で肩を竦めつつ、宥めるようにその背中へと手を触れさせた。
そこには、たった一筋の刀傷も存在を許されてはいなかった。広がるのは雪原のような、白磁のような滑らかな柔肌。だからこそナマエもすぐに上衣を纏うことはせず、こちらから身体を背けるにとどめているのかもしれない。
同時にそれは、兵としての名誉を示すものでもあった。背面の無傷は、目前の敵から逃走したり、後方から奇襲を受けたりしたことがない、という証なのだから。
「これで十分立派なもんじゃねえか」
「……そんなの誰だってそうでしょ。ハイランドの将軍に、腰抜けなんていないもの」
「それがよ、」
そこで言葉を切って暫し。なかなか続きが発せられないことを訝しんだのか、ナマエの首だけがこちらへ向き直った。思った通りの反応に満足しつつ、視線がしっかりぶつかるのを待ってからシードはにやりと口角を吊り上げた。
「俺の背中にはあんだよな、傷跡」
一度だけ大きく目を瞬かせ、そしてすぐに言わんとするところを理解したのだろう。
「――っ!」
言葉を成さない唸り声を上げると、ナマエは布団の中に頭まですっぽり潜ろうとした――のだったが、その行動も既に予測が済んでいる。
首元のところで上掛けの裾を掴み、シードはそれを一気に引き剥がした。心を汲んでやる気になったとはいうものの、生憎自分は気が長い方ではないのだ。こんな調子でいつまでも顔を背けられているのでは面白くなかったので、結局最後は力に訴えることにした。
「ちょっと……!」
「いいからちったぁ大人しくしてろって」
半ば引きずり込むようにしてこちら側を向かせ、身を捩るのを抱え込むようにして封じる。
「やだ、ってば……」
そうして露わになる身体の前面。
なだらかな曲線を描く双丘の上、鎖骨の下の辺りには先の戦いで新たに刻まれた痕跡がある。先刻、ベッドに傾れ込んで彼女の衣服を剥ぎ、それを見つけた時には思わず眉を顰めたものだった。決して同情や憐憫のためではない。もう少し位置がずれていたら、あるいはもう少し深ければ、致命傷にもなりかねなかったのではと思ったからだ。運良く大事には至らなかったこの怪我は、恐らくは時とともに跡形もなく消えていくであろうが、脇腹や下肢には消えない古疵が残っているのを知っている。負傷など軍人には当然のものである、とは言ったけれども、それをしないに越したことはないというのもまた事実だ。
出来て間もない傷跡を辿るように唇を這わせると、肩に添えられた彼女の指先がきゅうと握り込まれた。
「悪い、まだ痛むのか?」
その反応を、シードは直感的に痛みだと解した。少なくとも、熱を煽るようなぞくぞくとした感覚に身を震わせたわけではないということはすぐに分かった。傷は浅く、既に塞がっていたから、刺激にはならないだろうと思っていたのだが。
首元から顔を離し、彼女の表情を窺う。ナマエは、視線を逸らして呟いた。
「……痛いのは傷じゃない」
――ああ、こいつは、馬鹿だ。
ぴし、と頭の中で何かにひびが入るような音が聞こえた気がした。
確かに、この不器用な人間の内に二律背反を抱えさせたのは自分だ。シードという恋人がいなければ、ナマエが“傷ではない何か”を痛めることなどは恐らくなかったのだろう。けれども今更、疼きもしない痕跡を自分の目から遠ざけようとすることに何の意味があるというのか。戦場に立っていようがベッドの中にいようが、ナマエはナマエであってそれ以外の何者でもない。たとえ今よりずっと傷だらけだったとしても、あるいは生まれたての赤子のように綺麗な肌をしていたとしても、何も変わりはしないのだ。彼女が彼女である限り、その手は剣を握ることを決して止めはしないのだから。
「……だったら背中にも付けてやるよ」
途端に色を変えた空気に、彼女が息を呑む。何も言わせぬうちに、シードはその痩躯を再び裏返した。
戦いの中で生きることを選んだのは、他でもないナマエ自身ではないか。
シードがいったいどれほど彼女に剣を置いて欲しいと願っているのか。どこか安全な場所で帰りを待っていて欲しいと望んでいるのか、知りもしないで。閨の中では弱音を吐きながらも、それでも祖国のために剣を振るうことが自らの使命であると、そう信じて疑っていないくせに。
「そうすりゃ、何も気にならなくなんだろ」
どうしてこうも、馬鹿でいとおしいのだ。それは言葉にしないまま、まっさらな背中に牙を剥いて噛みついた。