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Scutellaria indica
燃えさかる炎の中で、ただ一人のことを考えた。
戦いの行方すらも思考の外側に追いやって、一人のひとのことだけを考えた。
笑顔を何より望みながらも、最後までそれを奪うことしか出来なかった相手。罪の意識が身を苛む一方で、傷痕としてその心に残り続けることが出来るのならばそれも悪くはないのかもしれない、と。
もしも別の時代に生まれていたら、痛みでも苦しみでもないものを与えてやれただろうか。ひとりの少女としての幸せに、寄り添うことが出来ただろうか。
「ナマエどの」
天幕の隅に置かれた寝台の上で、軍主である少女は膝を抱えて座っていた。
こうして名を呼んでみても、少女は唇を固く引き結んで沈黙を守ったまま。こちらに顔を向けることもなく、膝の上で組んだ手をひたすら見つめていた。
束の間の休息を終えれば、同盟軍は最後の戦いへと進撃することになる。ひとたび戦場に立てばたちまち軍主としての顔を見せてくれるであろう主君の心根の強さは知っているが、今の彼女の表情はあまりにも硬かった。幾度となく目にしてきた、悲痛な色を湛えた瞳や怒りに打ち震える姿とも違う。このまま一歩でも近寄れば壊れてしまうのではないかと、らしからぬ考えがシュウの頭を過ぎっていた。
「ナマエどの、どうかお聞きください」
「……」
「私はあなたの心を乱しました。その罰は謹んでお受けいたしましょう」
少女の細い肩がびくりと跳ねる。
それに呼応するかのように、出来たばかりの火傷が疼いた。
「許して欲しいなどとは申し上げません。あなたは私を憎んでよろしいのです。しかし、レオン・シルバーバーグを出し抜くにはこうする他ありませんでした」
自身を火の海に投じることがどれほどこの少女を傷つけることになるか、それは覚悟していたつもりだったけれども謝罪は地獄からさせてもらうはずだったのだ。ナマエのこんな姿を見るくらいなら、やはりあのまま死んでいた方が良かったような気さえしてしまう。
しかしながら、勝利の代償として払うはずだった命は一人のお節介な大男によって不本意にも永らえることになった。
こうなった以上は、今後も軍師としての務めを果たし続けるのみだ。一回り近くも年下の少女に対してどこまでも臣でいようとしたのは自分であり、彼女にどこまでも主たることを強いたのも自分なのだから。
「以前に申し上げたことを覚えておいでですか。私はあなたを守るためならば、いかなる汚名も厭いません」
憎んでくれればいい。恨んでくれればいい。誰より大切なはずの相手に苦痛を押し付けることしか出来ないこの身が、守ろうとすればするほど深く傷つけてしまう己が呪わして仕方がないと思っていることなど、ナマエは知らなくていいのだ。
「あなたを勝たせるためならば、いかなる手段とて辞しません」
自分は少女に、優しい振りさえしてやれない。
「……分かってる」
ナマエは静かに口を開いた。
「他に方法はなかったんだって、そんなことは分かってるの」
双眸は未だ伏せられたまま、発された声音は小さいけれどもよく通る。何かの感情を押し殺しているようにも思えたが、その色を読むことは出来なかった。
「アップルとクラウスなら、きっとあなたのいなくなった穴を埋めることも出来てたと思う。たとえあなたを失っていたとしても、わたしは戦うことを今更迷ったりなんてしないわ」
――そうだ。それが自分の信じたナマエという少女なのだ。だからこそ自分は、くだらないと思っていた命を懸けるという行為にも価値を見出すことが出来た。少女が決して目を背けることはしないと、分かっていたから。
「……だけどシュウさん、あなたは、」
そのとき、少女は初めてこちらを向いた。
真っ直ぐに見据えてくる視線は存外しっかりしている。明らかに自分を責めているその瞳には、覚えがあった。ラダトの街で初めて出会ったとき――力を貸してくれと懇願する妹弟子を冷たく切り捨てたときに向けられたそれだ。ナマエがまだデュナン軍のリーダーなどではなく、一人の少女だったときの。
「あなたは、這ってでもわたしのところに帰ってこようとは思ってくれなかったんだ」
思わず目を瞠った。
何を言われても仕方がないとは思っていたが、ナマエの口にしたそれは想像すらしなかったものだった。
確かに彼女の言う通りだ。端から生きて帰るつもりなどなかった。ただ、それはたとえば死して礎に、などというような大層なものではない。単に正攻法ではレオンという男に太刀打ち出来ないことが分かっていたからこその策なのであって、それを弄した結果として自分が生還することはないだろうと思っていた。そもそも今更礎などは必要ない。ナマエは一人で立って歩くことが出来るし、彼女を信じて集った大勢の仲間もいる。絶えず戦場に放り出され、幾千の死に直面して、望む望まざるに関わらず彼女は強くなった。己亡き後も、ナマエが使命を見失うことはないだろうという確信がシュウにはあった。
けれども、生きて戻ることを考えようとさえしなかったのは何故か。
行き当たったひとつの答えは、あまりに単純でおよそ身勝手なものだった。堪えがたかったのだ。これ以上、自らの手で少女を絶望に突き落とすことが。軍主然とした態度を強いておきながら、気丈に振る舞うナマエが痛々しくて仕方がなくて、そこから目を背けたくて自分は舞台から飛び降りるのを望んだのだ。
「……なんてね」
――ああ、本当に、おれはなんとひどい男なのだろう。
注がれる信頼に応える術を、道を示すこと以外に知らなかった。
親友と袂を別ち家族も失った少女が泣いて縋れる相手がいるとするのなら、それは自分を置いて他になかったというのに。
これまでナマエが一度として口に出さなかった初めての怨言の中に自分の秘してきたそれと同じ想いを汲み取ってしまって、敵を打ち破るための唯一の策はそれでもやはり下策でしかなかったことを思い知る。今ならば、わざわざこの命を拾ってくれたどうにも世話焼きのあの男に頭を下げて謝辞を述べてやったっていい。
軍主に祭り上げた張本人である自分をナマエは恨んでいて当然だった、それでも何千何万もの希望を背負って勝ち続けるためにはシュウに頼らなければならなかったこの少女が信頼以上の感情を抱いているだなんて思いもしなかった。もう少しだけ甘やかすことを許していれば、気付いてやれていただろうか。生への未練は切り落したはずが、生き延びた途端に執着が横溢しそうであるなどとはどうしようもない。
「さて、そろそろ行かなくちゃ!」
先程までの空気を払拭するかのように、努めて明瞭に発される声。鮮やかなくらいに完璧な軍主の顔を貼りつけて寝台を下り、確かな足取りで目の前に立った少女は笑みを作った。
「シュウさんはここで吉報を待っててね」
「……ご武運を、お祈りしております」
「ありがとう」
そう言って自分の横を通り過ぎていく少女を戦場に送り出し、その身にも心にも傷を負わせるのはこれでもう何度目かも分からない。幾許もなく彼女は友と剣を交えることになり、決して癒えない傷痕をまたひとつ残すのだろう。けれどもそれが、どうか最後のものとなるように。
そうして全てが終わったら、出会った時のように何の飾りも付けずに少女の名を呼ぼう。伝えることも触れることも、贖罪にすらならないかもしれない。
それでも。痛みでも苦しみでもないものを、この手が与えられるのならば。
「……シュウさん」
天幕の出口の前で一度足を止めたナマエはこちらを振り向かないまま、静かに己の名を紡ぐ。再び歩み出すその前に、小さな呼吸音を伴って細い肩が一度だけ上下した。
「生きててくれて、よかった」
震える声の残滓が、歓喜を連れて背を駆け上がる。
主のいなくなった天幕の中で、ただ一人の少女のためにシュウは膝を折った。