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taking you
久しぶりに降り立った街の風景は、記憶の中のそれとほとんど変わってはいなかった。
ラズロ達に会ってしまったらどう言い訳をしようか。ここに寄港する前までは、自分も戦闘員として彼らと共に行動していた。けれど所用でミドルポートに寄るという話になったとき、過去に気を遣ってかラズロは自分をメンバーから外してくれたのだ。
そんな彼の配慮は本当にありがたかったのに、自分は今こうしてこの街に立っている。
気が付けば、かつての雇い主の館の方へ足が向かっていた。――自分は何を考えているのだ。今はもう追っ手は来ていないとはいっても、領主の手の者に見つかっては大変なことになるではないか。こんな風に自分からのこのことやって来た裏切り者を、あの領主が捕らえようとしないはずがない。捕まる気こそしなかったけれど、私兵とやり合ったらただの騒ぎでは済まないだろう。
それでも、危険を冒してでも、確かめたい事があった。
雇い主を捨てて海賊になったことは少しも後悔などしていない。実際、哨戒とは名ばかりのもので、請け負っていたのはそれよりもずっと汚い仕事だった。自身の行為に懐疑と罪悪感を抱きながら任務にあたっていたあの時とは違い、今は仲間にも恵まれている。ハーヴェイ達と共に一生キカに仕えること、そこに自分の幸せがあった。ただ、"彼女"を忘れることはどうしても出来なかったのだ。
約束を交わしたわけでも、確かな関係でもなかった。それでも想い合っていた。
そんな相手に何も言わないまま、自分は姿を消したのだ。スティールに襲われたところをキカ達に救われ、そのまま海賊になったのだから仕方なかったと言えばそうなる。落ち着いてからでも、偽名を使って手紙を出すなりなんなり、連絡を取ることは可能なはずだった。けれど自分にはそれが出来なかったのだ。彼女は幼い頃に、海賊に襲われて両親を亡くしていたのだから。彼女にとっては、海賊など憎悪の対象に決まっている。
自分のことは、もういないものと思ってくれればいい。
ただ、一目でいいからその姿を確認したかった。何事もなく生きているのを、この目で見届けたかった。
ナマエは今も領主の館で働いていた。
人目を避けながら館の前まで辿り着いたとき。広々とした庭で花に水をやるその後ろ姿は、遠巻きからでもすぐに彼女のものだと判った。掃除、洗濯、買い物に庭仕事――あの時から変わらない仕事を今も続けているのだろうか。ふと、彼女が他に行く場所などないと言っていたのを思い出す。ずきりと心が痛んだのには気付かない振りをした。
もう少し、もう少しだけ近くで。
彼女の無事を確認できればいいと思っていたはずなのに、一度後ろ姿を目にしてしまうとそれだけではどうしたって足りない。
――せめて顔だけでも。
そう思ってしまったのが失敗だった。ゆっくりと近付いて植木の陰に身を隠そうとしたとき、不用意に腕が枝葉に触れてしまったのだ。瞬間、がさりと葉の揺れる音が立つ。ナマエはこちらを振り返った。
「!? 誰かいるの?」
久しぶりに目にした表情、耳にした声に、動くに動けなくなっていた。
こんなつもりではなかった。気付かれてはいけなかったのだ。自分が海賊でいる限り、彼女と会えはしない。そして自分は一生海賊としてあり続けるのだ。忘れられることは厭わないのに、拒絶されるのは怖いのだからどうしようもない。
彼女が恐る恐る近付いてくる。もう少しで顔を見られてしまうという所まで来て、ようやく身体が言うことを聞いた。
男は、港へ向かって逃げるように走り出した。
「待って!!」
人通りの少ない路地を選んで走り抜ける。足音は確実に自分を追って来ていた。追いつくことなど出来るはずないと思っていたのに、何の所為なのか未だに振り切ることが出来ていなかった。まさか船に乗るところを見られる訳にはいかないのだから、なんとしてもこのまま撒いてしまうしかない。彼女は自分を自分と分かっている。
「っ――!」
不意に聞こえた、声にならない悲鳴と何かが何かにぶつかる音。
振り向かずにはいられなかった。
バランスを失って傾ぐ身体。その足下に乱雑に転がる貨物の木箱。いまこの場所だけが時の歩みを止めたかのように、彼女の倒れゆく様はひどく緩慢に見えた。
気付けば、自分の足は勝手に動いていた。館の庭からこの路地まで駆け抜けてきた時よりも必死で。どうか間に合ってくれと願いながら伸ばした腕は、すんでのところで彼女を受け止めた。
――良かった。
安堵するのも束の間、支えた身体の頼りなさにどうしていいか分からなくなる。彼女は腕の中で静かに顔を上げた。
「シグルド」
ああ、何も変わっていない。
澄んだ瞳も、自分の名を呼ぶ声も。
「本当に、シグルドなのね……?」
「ナマエ……」
躊躇いもなく抱きついてくる痩躯を引きはがせるはずなどなかった。
ただ、それ以上言葉もなく抱き返す。このまま時が止まってしまえばいいと思った。こうして顔を合わせることになるなんて考えてもいなかったが、これでは改めて彼女に別れを告げなければいけないことになる。肝心なことばかりを言えないままで。
やがて、どちらからともなく僅かに身体を離した。重なった視線の奥で、彼女は自分が何を言おうとしているのかを汲み取ってしまったようだった。
「……また、わたしを置いていくつもりなの?」
「……すまない。俺はもう、君の傍にはいられない」
「……あなたが海賊だから?」
「!!」
何故、と問うことにもはや意味はない。
彼女がそれを知っているというのなら、もうこれ以上傍にいることは――――
「それでもいい」
思わず瞠目する。彼女の声ははっきりしていた。
腕に添えられたままの白い手が、強くそこを掴む。縋るような視線はそれでも真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「それでもいいの。わたしはシグルドと一緒にいたい」
「しかし、君の両親は……!」
「今あなたが海賊だってことは、それとは何の関係もないわ!」
自分だって彼女と同じことを願わなかったわけではない。
ただ、叶うと思ったことなどなかったのだ。
ナマエに辛い過去を思い出させてしまうから、などというのは体のいい言い訳に過ぎない。本当は、彼女に全てを受け入れてもらえないのが怖いだけだった。
――けれど、彼女自身がそれを否定するというのなら。
「……後悔、しないか?」
「させないでくれるんでしょう、海賊さん」
泣きながら、おどけてみせる。
涙に濡れた微笑をひたすら美しいと思った。頬に触れさせた指先を、温かな滴がじんわりと滲ませる。彼女と自分とを隔てるものは、もう何もない。
「……ああ。君を攫ってやる」
言葉すらもそうしてしまうように触れた唇は、ひどく甘かった。