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恋わずらい

 わたし、病気になったみたいなんだけど。
 目の前の男にそう告げたところ、返ってきた言葉はこんなものだった。
「……ナマエさん。本物の病人に向かって、そんな冗談はひどいじゃないですか」
 年がら年中咳き込んでいる自称病人のこの男にしてみれば、確かに自分の発言は心外なものだったのかもしれない。持病も病歴もない自分を男は羨ましいと言っていたし、誰から見ても健康そのものである人間の言葉とは思えなかったのだろう。
 けれど病気といっても、一般的に認識されるようなそれとは違う。今自分を悩ませているのは、見た目に分かるような病ではないのだ。
「冗談なんかじゃないもの。それに、これはトリスタンのせいなんだから」
「まさか……ゴホッ。俺の病気は誰かにうつったことなんてありませんよ」
 それはそうだろう。
 男の病気は全て本人の思い込みによるものなのだから。第一、小麦粉で症状が緩和されるような病気などうつってたまるものか。内心で苦笑しながら、つい本当のことを言ってしまいそうになるのを抑える。この件に関してはユウから口止めされていた。
 うつるはずのない病気がうつっただとか、そういうことが言いたいのではない。
 ただ、この男のせいで最近の自分はどうかしているのだ。
 ナマエは男のように戦ったりは出来ないけれど、それでも掃除や洗濯、食事の準備の手伝いなど、目立たない仕事でもやるべきことはたくさんあるはずだった。なのに、そのどれもが手につかない。気が付けばぼんやりと焦点の定まらない目で何もないところを見ていたり、そのくせ胸ばかりが苦しくて、溜息が止まらない。寝ても覚めても彼のことが頭から離れなかった。
「それで、症状は? 咳は……ゴホッ、出ていないみたいですが」
 本人の前でそんなことを意識したせいだろうか、病状は一気に末期段階まで達したような気がした。
 ――いっそ楽になってしまおうか。
 実際のところ、男にとって自分がどんな存在であるのかは全く分からない。けれど、持て余した感情はこれ以上扱いきれそうにない。ナマエは顔を伏せて、静かに口を開いた。
「苦しいの」
 誰かにこんな思いにさせられたことなんて、初めてだった。
「熱も出そうだし、頭もぼうっとしたままで」
 何も手につかない。
 四六時中いつだって、この男の事しか考えられずにいる。
「胸が詰まって、奥の方は焦がされてるみたいに痛くて」
 会えなければ寂しい。男が戦いに出ている間は、不安で仕方がない。
 こんな風に顔を合わせていたら、触れたい欲望はどこまでも膨れ上がってしまうのだ。
「今だって普通にしてるように見えるかもしれないけど、本当は動悸もひどいし、」
 ――もう、心臓止まるかも。
 言い終えた時には本当に心臓が止まるかと思った。それもこれも、全部この男のせいだ。
 彼は分かってくれただろうか。好きだ、とはっきり言えるような性格ではないことは自分が一番よく知っている。それでも、幾許かでも伝わってくれたのだと信じたかった。男が口を開く気配に、ナマエは恐る恐る顔を上げた。
「それは大変だ! ……ゴホゴホッ!」
 照れてみせるでもなく、困惑してみせるでもなく。
 これは一大事だ、とでもいうような顔で、男は大声を出した。そのせいか直後に盛大に咳き込んでしまう。
 あまりにも予想とかけ離れすぎたその反応に、つい言葉を失ってしまった。
「す、すぐにユウ先生の所に行きましょう!」
「……へ?」
「どうして早く言わないんですか……! 俺よりもずっと重い病気かもしれないのに……ゴホッゴホッ」
 でも大丈夫ですよ、先生の薬はよく効きますから。きっと治ります。
 そんな見当違いな言葉が返ってくる。
 先程までの張りつめた空気は既にほどけてしまっていた。男の方はと言えば、別の意味では切迫した心境になってくれたようだったが、まさか言葉通りに捉えてくれるとは思わなかった。ありもしない病気に苦しんでいる男だからこその反応だったのかもしれないが、本気で心配されても困る。
 ……これは強敵だ。
 男は予想以上に鈍いらしい。その上に思い込みが強いときたら、これはもうはっきりと言わなければ分かってくれないのではないだろうか。
 今度は本当に、頭が痛みそうだ。
「ほら、早く行きましょう!」
「ちょっと待っ――!」
 不意に、大きな手に自分のそれを掴まれた。
 手が繋がっている。
 そう自覚した途端に心臓が跳ね上がった。しかしそんな自分などお構いなしに、男は医務室に向かってずんずんと歩き始める。手を引かれるままに追従するしかなかった。拍子抜けしたせいで収まったはずの動悸は、もう激しくなっている。
 雰囲気を思い切り無視した的外れな反応で呆然とさせたくせに、今度は無自覚のうちにこんなにも簡単に動揺させるなんて。もしかすると、自分はとんでもない男に惚れてしまったのかもしれない。
「ゴホ……ゴホゴホッ!」
 この手をずっと繋いだままいられたなら、甘く苛むような苦しさもきっと融けてくれるのに。
 相変わらずの咳をしながらも繋がった箇所に穏やかな温度を与えてくるこの男に、熱を孕んだ溜息がまた一つ零れ落ちた。