Aa ↔ Aa
drastic remedy
潮風が頬を掠めていく。
眩い黄昏の光の中、黄金色に輝く海の底に、また一つ溜め息が沈んでいった。
さざめく波は零れたその音を消してはくれたけれども、鬱屈とした気持ちまでは攫って行ってくれなかった。
こうして甲板に立ち、風に当たりながら物思いに耽るのは自分にとって珍しいことではない。それに、ここで考えるのはいつも同じ相手のことだった。
目を閉じれば、瞼の裏に自然と浮かんでくるのだ。
たとえば苦しそうに咳をする姿。その真相を知らないうちは本当に心配したものだったが、彼の主治医にそれを聞かされた時は呆れた。それでも戦場に立つときには、彼は呼吸も乱さずに剣を振う。王国の元兵士と名乗るに不足のない強靭な戦士でありながらも、本人にその自覚は全くなく、戦いから帰ったかと思えば今度は健康のためだと言って豆腐ばかり食していたりする。
初めは、見ていて飽きないと思っていた。
いい意味で気が抜ける、心が和らぐ、そんな風に。
どこか方向がずれている、と思わせてくれることもしばしばだったけれども、次第にその真っ直ぐさに惹かれるようになっていた。ナマエさん、とあの声に名を呼ばれることが、自分にとってどれだけの喜びになっていただろう。
――それを聴けなくなったばかりか、顔を合わせることすらも無くなってしまった今もなお、幸福の残滓は自身の中で未練がましく渦巻いていた。
避けられている。
そう感じるようになったのは、ごく最近のことだった。
言い合いをしただとか、険悪になるような何かが男と自分との間にあったわけではない。心当たりがあるとすれば、それは先日自分が男に対して告白と取れるような発言をした、ということだけだった。
仮に男がそれを受け入れられなかったとして、だから気まずくなったというのなら、落胆するのに変わりはないにしろ状況としては十分にあり得るものだと思う。しかし、その時自分の意図は相手に全く通じなかったのだ。言葉自体は本当に真正面から受け止めてくれたのだが、それがあまりにも真正面すぎて、結局真意が伝わることはなかった。拍子抜けはしたが、彼らしいと言えばそうなのかもしれない。だからその後も自分たちの関係が変わることはなかったのだ――今までは。
もしかすると、最近になって彼は気付いてしまったのかもしれない。あの時自分が言った、その意味に。
そして今の状況がその結果なのだとしたら、もうどうしようもなかった。それならばいっそ言葉にしてくれた方がまだましなのではないかと思う。その一方で、自分を傷つけると分かっているような言葉があの男に言えるはずもない、ということも分かってはいたのだが。
彼を想う時に感じていた苦しさ、それは決して悲しみではなかった。
けれど、今は。
「……?」
ふと、床板が緩く軋む音が聞こえた。
ナマエは振り向いた。普通に歩く時の音にしては不自然な、むしろ故意に足音を抑えているかのような音だったが、別段そういう何かを考えての行動でもなく、ただ反射的にそうしたに過ぎなかった。
或いは、それは必然だったのかもしれない。
「……トリスタン……?」
振り向いた肩の向こうにその姿を捉えた瞬間、時が止まったのではないかと思った。
確かに数秒、動かない苦悶の表情はこの目に刻みつけられたのだ。
だが、時間の硬直が解けるとすぐに男は踵を返そうとした。
「っ、失礼します……!」
「待って!!」
咄嗟に駆け出し、手を伸ばしてその腕を掴んだ。もしかすると振り解かれるかもしれないと思ったが、そうはならなかった。腕を取った後は、男も自分も動かなかった。こちらに向けられた男の苦しげな表情から、ナマエがつい視線を逸らしてしまった以外には。
「……」
「……ナマエさん……」
久しく聞けていなかった自分の名を呼んだのは、絞り出すような声だった。
「……手を、」
「……放さないよ?」
男が息を呑んだのが分かったが、掴んだ手には勝手に力が入っていくばかり。
「……理由、聞かせてくれるまでは放さない」
「……」
「……ねえ。こんな、何も分からないままじゃ嫌だよ」
「……それは……」
言い淀む声が彼の優しさゆえならば、なおさら質さなければならない。たとえそれが、どんなに残酷なことだとしても。
「……わたしのことが嫌いになったならそれでもいい。だけど、」
「そんなこと!!」
突然の大声に、つい顔を上げてしまった。
声に対する以上の驚きが、そこにはあった。歪められた表情が、心外だとでも言いたげにこちらを見ている。
「俺があなたを嫌いになったりするはずがないじゃないですか……!」
ナマエは言葉を返せなかった。
それは安堵のせいかもしれないし、混乱のせいかもしれない。
嫌われたわけではない。でも、だとしたらなぜ、彼は自分を避け続けていたのだろう。
「ナマエさんは何も悪くない。悪いのは俺なんです。……俺は、あなたの側にいてはいけないんです」
まるでそれが罪であるかのように言う。
何よりも自分が、ナマエ自身がそれを望んでいるというのに――?
「……なに、それ。どういうこと……?」
やがて、男は静かに語り出した。
実は、ナマエさんの病気のことをユウ先生に相談したんです。
あなたにとっては余計なことだったかもしれません。でも、俺は本当に心配だったから……。
以前に聞いた病状を、俺は先生に話しました。そうしたら、「それは君のせいです」と言われてしまったんです。
自分の病気が誰かに伝染するなんて思っていなかった。でも、そうじゃなかったんですね。俺の近くにいると、あなたの病気はもっとひどくなってしまうかもしれない。治ったとしても、俺はまたあなたにそれをうつしてしまうかもしれない。
「――だから離れたんです。俺は、あなたが大切だから」
ナマエは男の話を黙って聞いていた。そうすることしか出来なかった。
言葉では到底表すことのできないような感情が、沸々と湧きあがってくる。
告げられた真相はあまりにも突飛で、それでもどうしようもないほどにこの男らしくて、怒ればいいのか呆れればいいのかが分からない。これが自分に降りかかったことでなければ、大笑いしていたのではとさえ思った。
気持ちが受け入れられなかったのではないか、という悪い予測は外れたが、それ以前にこの男には少しも伝わっていなかったのだ。今まで自分を悩ませていたものは、全て男の鈍感さと勘違いの産物だったというわけである。そのために、自分はあんな思いをさせられたというのだろうか。本当に、どうしてこの男はこうなのだろう。
「……バカじゃないの……?」
苛立ちと、それだけではない何かのせいで声が震える。
「……言っておくけどね、あなたの病気なんて少しもうつってない」
男は目を見開いた。
それから何かを言おうとして彼が口を開きかけたのが分かったが、ナマエはそれを許さなかった。
「そうじゃないの。トリスタンは何も分かってない」
そうだ、本当に何も分かっていない。
勝手に思い込んで、自分を責めて、その結果互いが苦しいだけの状況を引き起こして。
「……あのね。苦しいのも熱が出るのも動悸がするのも、全部あなたのことを考えてるからなの」
かつてこの男に対してここまで苛立ちを覚えたことはなかった。
けれどもそれと同時に、飽和しそうなほどに溢れる愛しさが瞬く間に自身の中を埋め尽くしていったのが分かる。
「わたしはあなたが好きなの。だから、全部そのせいなの。なんとか出来るのはトリスタンしかいないんだから……っ、」
なぜなら知ってしまったから。
自責のあまり今にも死にそうな顔をしていたこの男が、どこまで自分に心を砕いてくれていたのかを、知ってしまったから。
「もう、責任取ってよ……!」
刹那、視界が真っ暗になる。耳のすぐそばで、速い鼓動が聞こえる。
男の腕を掴んでいたはずの手はいつの間にかそこから離れていて、今度は自分の身体の方が自由を奪われている。
「……ナマエさん」
抱きしめられていると気付いた時には、もう涙が零れるのを抑えられなくなっていた。
「俺は鈍感で、」
「……うん」
「病弱で、」
「……」
「どうしようもない男です」
「……うん」
「でも、」
腕の拘束が緩む。
身体がそっと離されて、ナマエは顔を上げた。
つうと顔を伝った滴が、ごつごつとした指に拭われる。
「ナマエさんのことは、絶対に守りますから」
ようやく見ることの出来た笑顔が、至上の約束を告げた。