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陳腐なお伽噺
いつか白馬に乗った王子様が現れて、わたしをここから連れ出してくれる。
そんな夢を見ていた頃もあった。
だけど、それを馬鹿げた絵空事と諦めたあの日から。この見えない枷が解かれる日なんて永遠に来ないんじゃないかって、わたしはずっとそう思っていた。
名門貴族の令嬢といえば、聞こえはいいのかもしれない。
けれども、蝶よ花よと大切に育てられた、というのとは違う。わたしはただ、英才教育を押しつけられただけだった。お茶の作法に花、ダンスにピアノにバイオリンと、一通りのことはやらされたし、興味もない勉強だとか朗誦だとか、そんなものに囲まれる毎日を過ごしていた。
全ては、謂れあるミョウジ家の人間として必要な教養なのだと。耳に胼胝が出来るくらいに、わたしはそう聞かされてきた。それに納得がいったことなんて、一度もなかったのだけれど。
結局物質的には何一つ不自由がなかったけれど、それでもわたしには何もなかったし、白馬の王子様も現れることはなかった。
そして今、わたしはこの家が無上の名誉を得るための道具にされようとしているのだった。
見合いの話は久しぶりだったけれど、初めてじゃない。
最初のうちは、わたししか子供のいない両親いわく「由緒正しい血統」を絶やさないために良家の嫡男を入り婿として迎えようとしていたみたいだけれど、見合いの場でわたしがあまりにも無愛想な態度をとり続けていたせいか、そのうちに申し出は来なくなった。自分で言うのもなんだけれど、両親は相当手を焼いていたのだと思う。それでも、いくら自由が許されていなくても、好きでもない相手と結婚することだけは絶対に嫌だったのだ。
ただ、今回の話は今までと少し違った。
それはいつものような婿入りの申し出ではなく、わたしに嫁に来いというものだった。
もしも普通の貴族家が相手だったならば、両親は「由緒正しい血統」が途絶えることを嫌ってきっと受け入れなかっただろうと思う。けれども今回ばかりは、彼らはそういうわけにもいかなかったのだ。
……何せ今度の相手は、六大公家筆頭ハルニッシュ家の若き当主だったのだから。
なんでも「夜会で見染めた」らしいけれど、そういう類のものに出るときはとりわけ不機嫌なわたしのどこにそんな要素があったのだろう。それは本当に疑問だったけれど、両親はどうやってでもわたしを嫁がせたいようだった。
ハルニッシュ家といえば、ライテルシルトにおいて最高権力を持ち得るといってもいいくらいの家柄だ。
当主の妻の生家となれば、かなりの恩恵に与れることは想像に難くない。地位や権力の亡者にしてみれば願ってもないことだろう。そして突然転がり込んできたこの一大好機を逃すわけにはいかない両親は、半ば脅しともとれるような言葉を吐いてわたしを送り出した。
身分だけで言うならば、王子様にも準ずる人だと思う。
けれど相手が誰だろうと、やっぱりわたしの思いは変わらない。好きでもない相手と結婚なんか出来るわけがない。
当主が何を思ったのかは知らないけれど、幾人もの相手を辞退させるに至らしめたわたしの無愛想な態度をもってすれば、彼であろうと退けられるはずだった。だからわたしは、今までのようにつっけんどんな応対をすることを決め込んでいたのだった。
そうして実際に彼を前にして、やたらと広い客間で二人きりにさせられても、わたしは睨め付けるような視線を遠慮なく彼にぶつけてやったのだ。
今までなら、これだけで破談することだってあった。
そうでなければ、内心の怒りや焦りを押し隠したつもりになりつつ――実際には少しも隠し通せてはいなかったけれど――あの手この手でわたしの機嫌を取ろうとするか、だ。見たことのある反応は、全部そんなものだった。
違ったのは、この男だけだった。
「お姫様はご機嫌斜めかい?」
「……楽しそうに見えるとでも言うんなら、ハルニッシュ家当主様の目は節穴だわ」
「おや、これは手厳しいね」
怒るでも、焦るでもなく。
その顔にはただひたすらに人当たりの良い笑みが浮かんでいた。
――何なんだろう、この男は。公家の人間はみんなこうなのだろうか。わたしに見合いを申し入れてきたあたりで、ある程度の奇人であることを予想はしていたけれども。
「ますます気に入ってしまったな」
「悪趣味ね。むしろ被虐趣味かしら?」
「君が私の所に来てくれるなら、誰に何と言われようとも全く厭わないね」
気分を害するどころか、こちらが煽るたびに楽しそうに目を輝かせる。
いくら皮肉を言っても何でもない風に躱してくる、この捉えどころのない独特の雰囲気に飲まれてわたしはとうとう口を噤んでしまった。それでも目を逸らしたら負けだという気がして、勝ち負けも何もないはずなのに、テーブルを挟んだ向こうで細められている双眸から視線を外すことだけはしなかった。
「ところでナマエ嬢。不機嫌な顔も素敵だが、私は君の笑顔を見てみたいな」
不機嫌な顔の原因の一端がよく言う。
ただ、なぜか未だに勝ち負けに拘泥していたわたしは、この瞬間に「勝った」と思ったのだった。
「……出来るものなら、笑わせてみれば?」
「ふむ……」
わざとらしく顎に手を運び、考え込むような仕草を見せる。
この男の言動のひとつひとつがわたしを警戒させたり苛立たせたりすることはあっても、こんな状況で頬を緩ませることなんて出来るはずがない。
「さすがの当主様もお手上げだと思うけどね」
「そうかな?」
揶揄するような口調に、じりじりとした苛立ちを覚えた。
けれどもほら、笑わせるのとは程遠いじゃないか。この男の余裕たっぷりな表情も、わたしの神経を逆撫でするだけで――――
「どんな相手でも、笑わせられる自信はあるよ。……ただ、女性にそれをすると訴えられてしまいそうでね」
「…………は?」
思わず聞き返してしまったのは、もちろん発言の後半に不穏なものを感じたからだ。
言外の意味を考える。まさか脇腹をくすぐったりするわけでもないのだろうけれど。
「本当はビュクセ君で実演したいところだが、あんな姿を初対面のお嬢さんに見せるのも可哀想だからなあ」
実演という言葉に、ありえない推測がどこか真実味を帯びてしまった。
目の前の男は瞼を伏せてうーんと唸っている。それから、数拍のあとに開かれた瞳を再び細めて、ああすまないね、と。
「……変なひと」
溜息と一緒にそう零せば、よく言われるよと愉しげに返されて一気に脱力してしまう。
どう表現したらいいのか分からないけれど、とにかくこの男はわたしの理解の範疇を超えていると思った。本当に掴み所がないし、わたしの知っている"貴族"というもののどの類型にも当てはまらないのだ。
あれだけ気を張っていたのが、何だか馬鹿らしくなってきた。目の前にいるのは紛れもなくハルニッシュ家の当主であって、そのうえ事もあろうにわたしを見初めたなんて言ってきた奇異な男であることに変わりはないのだから、油断が禁物だということは分かっている。実際、この男がいったい何を考えているのかがわたしには全く読めていなかった。けれども、ある種の原動力とも言える苛立ちが霧散してしまっては、どうにも戦意が削がれてしまったのだった。
思えば、自分の運命がかかっているはずの場でこんな風に気が緩んでしまったことは初めてかもしれない。それは決して安心だとかそういう類のものではないけれど。何よりわたしに嫌悪感を抱かせるはずの、貴族特有の気味の悪い作り笑いと剥き出しの打算が今は、見えない。
「……ひとつ聞いてもいいかしら」
「何かな?」
「どうしてわたしを選んだの?」
どれだけきつく睨みつけても動じない、どれだけ刺々しい言葉を吐いても態度を変えることもないこの男が本当に分からない。どう考えてもわたしの家が六大公家と釣り合いを取れるはずはないし、性格だって自分でも褒められたものではないと思う。求婚者なんて引く手あまたという身分で、わたしを選ぶ利点なんてどこにもないはずなのだ。
"良家の娘"なら誰でも良かった、あの貴族たちと違うのならば。わたしを選んだ理由があるのならば、知りたい。気付けばわたしはそんなことを思ってしまっていた。
「君なら、私を退屈させないでくれそうだと思ったからさ」
さも当然といった口振りで、男はそう言った。
「……?」
「ナマエ嬢の評判は兼ね兼ね耳にしていたからね。興味があったんだよ。まあ直に顔を見たのは、あの夜会が初めてだったけれど」
子供のような表情。
これがライテルシルトの未来を担う人間の言うことなのだろうか。退屈させないでくれそうだなんて、あまりにも恣意的な言い草ではないか。政治的な理由もなしに、気に入った、興味があった、ただそれだけで、一介の地方貴族の娘を嫁に迎えたいだなんてどうかしている。
――けれど、その言葉に、わたしは確かに救われた気がした。
「しかし、自分の目が間違っていなかったようで本当に嬉しいよ」
テーブルから身を乗り出してきた男が、じい、とわたしの目を見つめる。
「今、私がつまらなさそうに見えるかい?」
……愚問だと、思った。
「……いいえ。呆れたくなるくらいに楽しそう」
六大公家の筆頭なんて地位にありながらこんな風にいられるこの男を、不本意だけれど羨ましいと思ってしまった。
満足気な表情はなぜだか一瞬固まって、それから目に映ったのは、今日見た中でも最高に嬉しそうな。
「ああ、ほら、笑ってくれたね!」
――虚を衝かれた。わたしは目を瞠った。
「思った通りだ。やはり笑顔は一段と可愛らしいね」
「っ、ちが――……」
違うだなんて、言えない。
男の言葉を理解すると同時に、緩んだ頬を「戻した」自覚があったのだから。気が付いたら強張りを溶かされていて、何気ない言葉に潤されていて、そうして表情までもが無防備にさせられていて。居たたまれなくなって俯いた耳に、椅子を立つ音が聞こえた。
動いた影は、わたしのすぐ傍らで止まる。自分の立場を分かっているのかいないのか、男は身を屈めた。
「今日会ってみて、尚更君が欲しくなったよ。私の所に来て欲しいんだが、どうかな?」
そっと肩に手を置かれて、おずおずと頭を上げた先。所有欲を隠そうともしない台詞の割に、その顔はひどく穏やかだった。
動揺している自分が、信じられない。
好きでもない相手とは結婚なんてしない、その決意は絶対に変わりはしないのだ。それでも、この男に少なからず興味を持ってしまったことは悔しいけれど否定出来なかった。本当に、悔しいけれど。
「……ま、前向きに、検討してあげても……いい、わ、」
「ああ、よろしく頼むよ、ナマエ嬢!」
だって、今までこんな気持ちにさせられたことなんて、一度もなかったんだから。