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眠れない!

 部屋の扉をくぐってから、次の一歩を踏み出せずにいた。
 どっこいしょ、などと親父臭い声を出しながらベッドへ腰掛けたこの居室の主は、早く来いとでも言わんばかりにぽんぽんと布団を叩いている。「あんまり綺麗すぎるのはどうにも落ちつかねえ」という本人の好みを反映しているらしい適度な散らかり具合は相変わらずだったが、どことなくいつもと雰囲気が違うように感じられるのは室内の明かりが心許ないからか。普段であれば、ビクトールの部屋に足を踏み入れるくらい何ということはないはずなのに、真夜中の暗がりに灯る仄明かりが慣れないものに思えてしまって落ち着かない。
 このまま足を進めていいのか、それとも引かせるべきなのか。扉を背にして突っ立ったまま、ナマエはひたすら逡巡していた。

 そもそも、なぜ自分がこんな時間にこんな場所を訪れることになったのか――その発端は、時を少し遡る。
 この日もナマエは普段と同じように、レオナに付いてデュナン城の酒場に立っていた。小遣い稼ぎも兼ねて店の手伝いを請け負っていたのはかつてミューズの南東に砦を構えていた時分からだったが、今ではそれがほぼ専業のようなものになっていた。右手に紋章を宿した少年の下、この城を本拠地と定め軍としての体裁を成してから、デュナン軍は日毎にその所帯を膨らませている。おかげでレオナの酒場は朝から晩まで客足が途絶えず大繁盛だった。さっぱりとして面倒見の良い女主人が作る居心地の良い空間は兵士たちの憩いの場となっていて、忙しさは傭兵隊での店の比ではなかったけれどもレオナは儲かって何よりだと笑っていた。
 デュナン湖の湖面に薄氷の張る季節になると、とりわけ夜分に客が増える。床に就く前に、酒で体を温めるのだ。
 ビクトールに関しては、春夏秋冬を問わずおまけに昼夜も問わず、年がら年中酒盛りを好むような男であったが、寒さにはそれなりに参っているらしかった。この時期夜は身体が冷えてかなわねえ、などとぼやきを零すものだから、ナマエは彼に酌をしてやりながら冗談のつもりでこんなことを口にしたのだ。――それなら添い寝でもしてあげようか、と。
 頼れる兄のような存在としてだけではなく、それ以上に慕う相手であるビクトールから日頃子供扱いをされてばかりいるのが、ナマエとしてはあまり面白くなかった。軽く一回りは年が離れている自分が幼く見えてしまうのも多少は仕方のないことなのかもしれないが、やはり不服であることに変わりはない。そういうわけで、先の発言はこの熊男を少しからかってやろうという思いつきから出たものだった。もちろん言葉通りにするつもりなどは初めからなかったし、とにかくちょっとした悪戯心を起こしただけだったのだ。
 それが当の熊男は、ナマエが期待したように面食らうでもなく、あるいはおかしげに笑うでもなく、手を叩きながら
「そいつは名案だ!」
 などと返してくるのだから仕掛けたこちらの方が困ってしまった。
 そうして、どう反応したらいいのかも分からずにいるうちに、そろそろ客足も落ちついたことだからとレオナに役目を取り上げられ、すっかりその気になったらしいビクトールに半ば引きずられるようにして、今の状況にまで流されてきたというわけである。
 顔には出ていないが実のところかなり酔っているのではないか。そんな疑いが一瞬頭を過ぎていったが、今晩彼はそれほど勢いよく杯を空けてはいなかった。
 カウンターに座って気分良く大きな声で笑っていたビクトールだが、気が大きいのも声が大きいのもそれは元々だ。酒のせいでその傾向に拍車がかかるようなところはもちろんあるけれど、妙なことを言い出したり別人のようになったり、というような酔い方はしないはずなのだが――。

「ほーら、何やってんだ?」
 とうとう痺れを切らしたのか、ベッドから立ち上がって近付いてきた男に腕を引っ張られた。
「わ、ちょっと……!」
 そのまま文字通り褥へと引きずり込まれる。
 さっきまで男が座っていたであろう部分だけは生ぬるいものの、肌に触れる寝具の冷たさに思わず身震いした。しかしこの後に、そんなものとは比較にならないほど自身を震撼させるような出来事が待っているかもしれないのである。そのための心の準備は全くもってできていない。
 多少年が離れているとはいっても、若い男女が同衾するということはつまりそういうことなのではないか、と思春期真っ只中のナマエはそう思っている。普段の関係がどうであれ、同じ布団に入ってしまえば何かの弾みでそうなってしまったとしてもおかしくはない、とも。その上もしかするとこの男は酔っているかもしれないのだ。
 ビクトールのことは好ましく思っているが、だからといって大人への階段を一気に駆け上ってしまうというのはどうなのだろう。もちろんそうなってしまえば、この大柄な男を相手に自分が敵うべくもないのだけれども。
 体勢が整ったのか、ごそごそ聞こえていた布の擦れる音が落ち着いた。ナマエの動悸はいよいよ治まらなくなってきたが、一方で頭の隅にはまだ幾許かの冷静さを残すこともできていた。それというのが、目の前の男からは色めいた雰囲気の欠片も感じられないのである。
「どれどれ」
 その腕は無遠慮にナマエを引き寄せていたが、まるで品定めでもするかのような口振りには何とも緊張感がない。
「おう、こいつはいいや!」
 今夜は寝冷えとは無縁だな、と満足げに告げられたところで、だんだんと自らの認識が間違っていたのではないかとの疑念が沸き上がってくる。つい無意識に眉根を寄せてしまうと、それを見ていたらしいビクトールは何を勘違いしたのか見当外れの弁明を口にした。
「先に言い出したのはお前の方だからな。今さら酒臭えだのイビキがうるせえだの文句言うのはなしだぜ」
 そういえばこの男の地響きのような高いびきのことを失念していたなと、締まらない調子に流されて呑気なことを考えている間に「おやすみ」と話は打ち切られてしまう。そしてベッド脇に置かれたランプの明かりはさっさと落とされてしまった。
 ここへ来てやっと理解する。この男は本当に湯たんぽ代わりにするためだけに自分をここへ引きずり込み、そしてこれから気分良く夢の世界へ入るつもりなのだ。
「……」
 ことによると後戻りのできないところまで行ってしまうのでは、と恐れていたはずが、こうも興味を持たれないのでは何と言うか、それはそれで釈然としないものが残る。そんな思いを抱いてしまうのが、年頃の少女の難しいところなのだった。
「ね、ねえ……」
「ん?」
「あのね、」
「どうした。ションベンにでも行きたくなったか?」
「違っ……もう最低!」
 どうしてこの男はこうなのだろう。こめかみの辺りに軽い痙攣を覚えながら、ナマエはふと赤いブレザーの友人がビクトールを評した言葉を思い出した。フリックさんと違って、あの熊男にはちょっと“でりかしー”が足りないのよね。目下この男の相棒に熱を上げている彼女だが、意外とその周りにも注意は行っているらしい。おそらくニナの言ったのはこういうところを指しているに違いない、と当時は意味の分からなかった言葉に何となく納得がいったのだったが、いかに“でりかしー”の足らない男であろうと悪口を浴びせたまま放っておくわけにもいかないので、気を取り直して本題に移ることにした。
「……何もしないの?」
 それからたっぷりと間を置いた後、男はがばりと上半身を起き上がらせた。
 この暗がりでは表情までは知れないが、大きな手が頭を掻く仕草ははっきりと見て取れる。そしてその後には、特大の溜息が降ってきた。
 そこには言外に「何つうことを言いやがる」という窘めと呆れが含まれていたのだったが、それが少女に汲み取られることはなかった。何もしないのかと尋ねたはいいが、その後のことについてナマエは何も考えていなかったのであり、その言葉こそが自身の考えるところの「何かの弾み」になる可能性があるなどとは、やはり露ほども思わなかったのである。
「……いやなあ、」
「……?」
「さすがに俺だってガキに手ぇ出すような真似は……」
「っ、そうやってすぐ子供扱いする!!」
 追従するように身を起こし、声を荒らげる。こういう所作がまさに子供扱いを受けてしまう原因の一端となっているのだが、そうとは思い至らないナマエはばふばふと布団を叩いて抗議の意を示した。
「こら、ぎゃあぎゃあ騒ぐな。隣の奴らが起きちまうだろうが」
 頭に手を置かれて、ようやく少女は静かになる。一度大きく深呼吸をしてから、ビクトールは宥めるような調子で言葉を切り出した。
「……あー、まあ、確かにお前くらいの年ってのはそういう時期だ。色んなことに興味があるのもよぉっく分かる」
「……」
「だがな、勢いで突っ走りすぎちまっても、良い結果ばかりが付いてくるとは限らねえんだ。悪くすりゃ、一生後悔するような羽目にだってなるんだぜ」
 もしかすると、この男にもそういう何かがあったのかもしれない。頭の中にぼんやりと浮かんだひとつの推測は確信にも似ていたけれど、めったに自分のことを語ろうとしないビクトールにそれを問うなどということはとても可能ではなかった。相変わらず顔色をうかがうこともできず、ナマエは次の言葉を待った。
「それにな、この手のことは、段取りってやつが大事なのさ」
 そいつが分からねえうちはいけねえな。
 噛んで含めるような口調で、ビクトールはそう説いた。
 男の言うことが分からないわけではない。ただ、分かりたくないという気持ちがきっと心のどこかにあって、それが彼の思いやりゆえの説教を素直に受け入れることを邪魔しているのかもしれなかった。
「……つまりどういうこと?」
「そうだな……酒が飲めるようになる頃にゃあ、少しは分かるかもしれねえな」
「……もう飲めるもん」
「嘘つけ。この間、ジュースと間違って一口飲んだだけでぶっ倒れてただろう」
 そんなことをよくもいちいち覚えているものだ。
 強がりも通じず、結局肝心なところは有耶無耶にされたまま終わってしまう。それでも、少女はこれ以上何かを言い返す気にはならなかった。
「まあ何だ、とりあえず趣味の良さだけは褒めてやるから――」
 今日のところはこいつで勘弁してくれや。
 何をと言う間もなく、伸びてきた手に前髪をかき上げられる。そうして。
「!!」
 ――部屋の明かりが点いていなくて、本当に良かった。

「さーて、そろそろお喋りは終いだ。早く寝ないと、いつまでも大きくなれないぜ」
 未だ固まったままのナマエの隣、男が勢いよく身体を横たえた衝撃でベッドが揺れた。
 お休み三秒とはかくや、程無くして例の地鳴りのような音が室内に響き始める。しかしそんな轟音もまるで耳に届かない、それくらいに、額に落とされたキスはナマエにとって衝撃的だった。
 決して特別な意味があるわけでもない、きっと親愛の情と、あとは僅かばかり憐憫の類が混ざったようなものに過ぎないのであろうと、頭の中の冷静な部分はそう言っている。大体つい今しがた子供だと言われたばかりだろうに、それでも早鐘を打ち続ける心臓がうるさくて仕方ない。
 何の気なしに告げた冗談から、まさかこんなことになってしまうとは。
 しかしこの部屋に来た当初にはもっと凄まじいことを予想し一人ではらはらしていた人間が、額へのキスでここまで動揺していることを考えればある意味ではこれでよかったのだとも思えた。
 もしもあと少しだけ悪い大人が相手であったら、今頃は本当に呼吸が止まっていたかもしれない。

 結局、この後ナマエが男と並んで横たわる決心をつけるまでには多大な時間を要したため、ビクトールが本来期待していた湯たんぽの恩恵はそれほど大きなものにはならずに終わったのだった。