Aa ↔ Aa
ないものねだり
星が見たい、と言ったら、ビクトールは二つ返事で付き合ってくれた。
ただの思いつきに過ぎない、何の脈絡もなく口にしたその願い事を笑い飛ばすでも面倒がるでもなく、それどころか「だったらいい場所がある」と。誘い主の思いの外その気になったらしい大男は、ご丁寧にも晩酌用の一式まで片手に抱えながら、ナマエをデュナン城の城外へと連れ出した。
ひんやりと心地好い夜風に吹かれながら、ナマエは男の真横より少しだけ後ろを追従する。
城の裏手をデュナン湖の畔に沿って東、しばらく歩けばその終端はなだらかに起伏した小さな岬だ。視界一面に広がる湖面は、時折風に撫でられて緩く波紋を描いている。昼間には硝子のように澄んだ水も、今は底が見えないほどに深く夜闇を融かしていた。ただ一点、月の分身を映した光だけが、煌々としてそこに浮かんでいた。
「うーん、星見にはちょいと明るすぎるかな……」
どっかりと地べたに座りながらビクトールはそんなことを呟いたが、元来花より団子を地で行くような男だ。口振りは残念そうでも、その手は早速酒盛りの準備を始めていた。
男の隣に腰を下ろし、ナマエは頭上を見上げる。あと数日で満月を迎えようかという月は、ビクトールの言うように水面のそれよりもずっと鮮明に輝いていて、等級の低い星の姿は目を凝らしてもなかなか見つけることができない。薄ぼんやりと霞んだそれに、ナマエは何となく同情に似た感覚を覚えた。
「よし、まずは一杯といこうぜ」
我知らず嘆息をこぼしそうになったところで、ずいと目の前に杯が差し出される。
反射的に受け取ると、男はナマエの手元に目掛けて自身の杯を合わせ、それから喉を鳴らしてその中身を干していった。度の強くない果実酒を好み、極めて普通の飲み方しかしないナマエとは違い、すぐさま手酌で二杯目を注ぎ始めたビクトールは見た目どおりの大酒飲みだ。そしてそんな男の嗜好をよく知っているナマエとしては、杯を傾ける前に、これから襲ってくるであろう喉を焼く刺激に身構える必要があった。けれども。
「美味しい……」
「だろ?」
喉元をすっと通り過ぎていく甘味と酸味、胃の中をじんわり温めるような熱は、間違いなくビクトールがナマエのために選んでくれたものだった。
「……ビクトールの見立ても、たまには当たるのね」
「『たまには』ってこたぁねえだろうが」
そして、それをどこか苦くも感じてしまう理由はきっと別のところにある。
嬉しくないはずがない。けれどそれ以上に、心の反対側がじんと疼いて苦しかった。
ビクトールのこういう気遣いは決して特別なものではないのに、まるで自分が彼にとってのそれであるかのような錯覚に陥らされてしまう――だからビクトールはずるい、とナマエは思う。片足を突っ込みかけた次の瞬間に、期待は呆気なく打ち砕かれてしまうから。
「……しっかしまあ。こっちの空気ってのは、やっぱりいいもんだな」
腐っても故郷ってことかねえ。
独り言ちるように落とされた声は、夜のしじまの中をどこか寂しげに響いた。
ビクトール達がティントでの戦いを終えて、デュナン城に戻って来てからはまだ日が浅い。鉱山都市であるティントは独特の風土を有すると聞いていたが、ただ彼の言っているのはきっとそういうことではないのだろう。
因縁の吸血鬼を討ち果たして、ビクトールは一つの目的は果たしたのかもしれない。けれども彼の大切だった人々が帰ってくることはもう二度とないし、この戦争でも彼はまた一人、代え難い相手を失ったのだ。
ナマエが誰より見つめ続けてきた横顔は、その奥にあるものを読ませてはくれない。
飄々としたその背に途方もなく重いものをたった一人で抱えながら、男はそれに手を伸ばすことすら許してくれなかった。
「何だよ、黙り込んじまって」
一線の内側には決して近付けさせないくせに、自分ばかりがこうして無遠慮に人を覗き込んで、簡単に心に入り込んで、いつの間にかそのすべてを埋め尽くしてしまう。それを身勝手と呼ぶ方が間違っていることくらい、痛いほどに分かってはいたけれど。
「別に、なんでもないよ」
「ははあん。さてはお前さん、俺様のあまりの色男っぷりに見とれちまったな?」
「……あまりの熊男っぷり、でしょ?」
すかさず肘打ちが返ってくる。覚えてろよ、と笑いながら細められる双眸は、こんなにも近くにあるのに遠い。
かつての彼には、一歩踏み込むことを許した誰かがいたのかもしれない。この場所でこんな風に二人語らって、もしかしたら弱音をこぼしたこともあったのかもしれない。そしてビクトールはいつだってそういう存在ばかりを失ってきたのだ。
「なあナマエ」
いつかは自分がと、夢見たこともあった。
けれども、今はただ。
「星が見たかったわけじゃあ、ないんだろう」
「……うん。あのね、」
その先にどんな言葉を続けようとしたのかは、自分でも分からない。
元よりビクトールは答えを欲してなどいなかった。だから、無意識に探していたのは理由ではなく、きっと言い訳の方だったのだろう。
「あのね、ビクトール」
「おう」
「……ちょっとだけ、あともうちょっとだけでいいから、甘えさせて」
子供のような願いを、ビクトールは笑わなかった。
真横から伸びてきた大きな手に、ナマエの髪はぐしゃぐしゃと好き放題に撫で回される。色気も何もあったものではなかったけれど、その無遠慮な所作がどんな言葉に勝って優しいことをナマエは誰よりもよく知っていた。
「……そりゃあ、お安い御用だ」
男の広い肩に頭を預けながら、無骨な指先の感覚に意識を傾ける。
それが普段よりほんの僅かに繊細でさえなかったのなら、ナマエは自身の言葉を後悔せずに済んだのかもしれなかった。