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エンゼルランプ
「……終わった?」
「……ああ。恐らく」
断続的に響いていた剣戟の音がようやく静まる。
増援の小部隊最後の一人と思われる相手が地に伏したところで、敵の殲滅はほぼ完了したといってよさそうだった。そろそろ撤退令も出される頃だろう。長剣を鞘に収めながら、ナマエは共に戦っていた男の足下に倒れた兵士を一瞥した。
「どうする?」
傷こそ負っているものの、この兵を沈めたディアンの一撃は故意に急所を外していた。気を失っているようだが、意識が戻れば鎧を脱いで逃げられる程度の力は残っているはずだ。放っておいても死にはしないだろうが、捕虜として連行するという手もあった。
「捨て置けばいい。どうせ邪魔になるだけだ」
「……それもそうね」
確かに、二人掛かりとはいえ自力で動けない相手を引きずって歩くのも面倒だ。騎兵ならばともかく、早めの離脱が原則である自分たち軽兵にとっては大きな障害になる。見たところ単なる一般兵のようだし、捕虜として連れていく利点も苦労に見合うほどのものではないのかもしれない。
「じゃあ、行きましょうか」
ちょうど時を同じくして、撤退の合図が鳴り響く。
予備のポーションを倒れた兵の傍らに転がすと、ナマエは離脱地点へ向かって歩き出した。
「ナマエ」
掛けられた声に、先を歩いていた足を止めて振り返る。
ディアンという男は、あまり他人の名を呼ぶことをしない。
比較的耳にするのはせいぜい「シスターイゼルナ」と「リース公子」くらいのもので、尊称もなしにこうして呼んでもらえるのはなかなか貴重なことだとナマエは思っている。
「……腕を出せ」
……よく気が付くものだ。傷を受けた箇所を庇うように歩いていたつもりはないというのに。
感心しながらも、抜け抜けと傷を負っていない方の腕を差し出した。槍が当たった程度でそれほど大きな怪我でもないし、手間を取らせるくらいならさっさと離脱した方がいい。
「……」
馬鹿な真似をするな、と翡翠の双眸が言っていた。
もともと眼光が鋭いということもあって、この男に目で語られると弱いのだ。無言の圧力を感じるとでも言ったところか、とにかく彼との睨み合いに勝てたためしは今まで一度もなかった。
「大したことないのに」
そういうわけで、今回もあっさりと屈服することになったのだった。
外套を捲ってもう片方の腕を出しながら、不貞たようにそう言うと今度は溜め息を吐かれてしまう。
地面に斧を突き立て、男は携帯袋から傷薬と綿布を取り出した。薬を染み込ませた綿布を傷口に宛がわれ、その上から包帯が巻かれていく。彼の手元を目で追いながら、利き腕でなければ世話をかけることもなかったのに、とぼんやり思った。
「……きついか?」
「ううん、平気」
「ならいい。自分でやるのとでは勝手が違うからな……」
そう言う割には随分手際のいいものだった。
巨大な斧を操りながらも、敵の隙を逃さず確実に一撃を叩きこむだけあって彼は器用なのだ。手の方に関しては。
「近頃はそれも少なくなったが……」
その言葉に、青髪のシスターの姿が頭を過ぎる。
彼の言う通りだった。傭兵時代には余程の怪我でもない限り自分で自分の面倒を見ることは当然だった、というよりはそもそもそうする以外にどうしようもなかったのだが、今は違う。シノン騎士団に雇われるようになってから、そして入団を果たしてからは、神聖魔法の力でシスターに傷を癒してもらってばかりになっていたのだった。
特に、自らの危険を省みず仲間を救おうとするシスターイゼルナは前線にまで飛び出してくることもしばしばで、その度に助けられながらも前線の兵たちは冷や冷やさせられるのだ。そしてその最たる例は、ここにいるディアンに他ならない。
「これでいいだろう」
「ありがとう。優しいのね」
手当てを終えた男は途端に面食らったような顔をした。それを期待して、わざと後半の言葉を言い添えたのではあるのだが。
「何、そんなに驚いちゃって」
「……いや、」
数秒の空白を置いて彼は言った。
シスターにも似たようなことを言われたのを思い出した、と。
「それは言うでしょうよ。だって、ディアンは優しいもの」
「……」
「……、なんてね」
動揺よりもむしろ神妙な様子をされてしまって、皮肉にも仕掛けたこちらの方が居た堪れなさに俯く始末だった。
男がそれを言われ慣れていないことは分かっていたが、ナマエとしても口に出したのは初めてだ。
中身についてはてんで不器用なこの男の優しさに触れる瞬間は何度もあった。それでも、今でこそああして冗談めかすことまで出来るものの、騎士団に入る以前の彼に対してはとても口に出来る言葉ではなかった。
帝国軍と相対するこの男の姿は、まさに戦鬼と呼ぶべきものだったから。
過去に一度、戦う理由を問うたことがある。
家族の復讐のためだ、とディアンは答えた。
母親と妹を奪われたという彼の絶望がどれほどのものなのか、自分には想像もつかなかった。開戦の前までは普通に言葉を交わしていても、いざ戦闘が始まるとまるで何かに取り憑かれたかのように斧を振るう。その姿に、それ以上この男に踏み込んではいけないと警鐘が鳴るのを聞いた。彼にかけられる言葉を、ナマエは持っていなかった。
殊にその牙は帝国兵に向けられていた。帝国への憎しみだけが、戦場に立つ彼を突き動かしているかのように見えた。捨て身の殺戮を繰り返し、戦意を失った敵兵をも容赦なく殺め、命乞いすら無言で切り捨てる彼の姿を見ていられないながらも、自分にはどうすることも出来ないのだと思った。
自分にはこの男を止めることは出来ない、と。
あんな戦いを繰り返すことで彼が救われるなどとは思っていなかった。けれどもそれで彼の気が済むというのなら、自分に残されたのは男を見守ることだけだったのだ。幸運にも傍らで戦うに値するだけの力は持ち合わせていた。だから、せめて彼の背が傷つかないようにと。その背を守ることを勝手に自分の仕事にして、そうしてずっと戦ってきた。
ディアンが入団を決めたあの日、彼とシスターの間に何があったのかは分からない。
シスターイゼルナが、彼の憎しみの連鎖を断ち切ったということ。そしてその時から、彼女がディアンにとって特別な存在になった、ということ以外は。
あの日を境に彼の表情は少しずつ変わっていった。憎悪に任せて帝国兵を惨殺する彼の姿はそれきり二度と見ることがなくなって、代わりに目にするようになったのは、シスターの傍らに在る彼の安らいだ表情だった。
――かなわない、と思った。けれど仕方がない、とも思った。
所詮は自分も誰かを斬って糧を得る身なのだ。それならば、ひとを救えない汚れた手で出来ることをするまでだった。これまでそうしてきたように、共に戦うことこそが自分の役目だから。本当はいつだって傍にいてこの男を支えたいであろうシスターに代わって、彼が傷つくのを少しでも防げるのならそれでいい。
寂しくないと言えば、嘘になるけれど。
「……あんたもな」
「え?」
顔を上げる。
目を見開いた自分に、男は軽く笑って先を歩き出した。
ナマエは呼吸を忘れた。
心臓の辺りが締めつけられるようになる。それは苦しさにも似ていたけれども、どこか心地好い熱を孕んでいた。
ディアンは、こんな風に笑うのか。
僅かな翳りもないその表情は、少しの痛みと言い様のない情動をもってナマエの心を焼いた。
「早く来い。撤退に間に合わなくなるぞ」
男が振り向いて、深緑の外套が揺れる。
ああもう。
随分穏やかになってくれたものだ。
眩しいくらいに。
「待って!」
隣まで駆け寄って、肩を並べる。それから少しだけ距離を詰める。
抑えきれない笑みが、つい口から零れた。
「……ナマエ?」
珍しい。日に二度も名を呼んでもらえるだなんて。
妙に愉快な気分になって、とうとう声を上げて笑い出してしまったナマエに、男は呆れたような視線を投げて寄越す。
「……頭も殴られたのか?」
「失礼ね!」
彼に笑顔を取り戻したのは自分じゃない。
けれど向けられた穏やかな表情は、自分だけのものだと思わせて欲しい。
そして叶うのならば、これからも何度でも、目にすることが出来るように。二度とこの男が、安らぎを失うことのないように。
想いは知られなくていい。だから明日もまた剣を振るおう。
この男と、背を合わせて。
「ふふふ」
「重症だな」
名も付けられない衝動に任せて、守るべき背中を軽く叩く。
出来たばかりの傷が僅かに疼いたが、ナマエはそれを気のせいにした。