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選ばれざる者の幸福

 女一人で夜の酒場を訪れるだなんてあまり褒められたものではないけれど、ここに通うのはやめられない。
 残念ながら“シノンの二花”には数えられていないわたしでも、一応は騎士としての叙勲をきちんと受けた身なのであり、それに見合う程度の実力はあると自負している。先輩騎士いわく「見た目よりもずっと手荒っぽい」との若干不名誉な評が有名になっているのかいないのか、今ではふざけ半分で絡んでくる酔っ払いもほとんどいなかったし、いたとしても彼らをちょっと懲らしめてやるのには何の不自由もしなかった。そういうわけで、お金と時間があれば付き合ってくれる相手が捕まらなくても、わたしはこうして酒場に足を運んでいた。仲間の弓兵士のようにお目当ての歌姫がいるなんてわけではなくて、ただ騎士団での日常からは少し外れた喧騒の中で飲むのが好きというだけだ。
 マリーベルの女将さんが作る家庭料理も本当に美味しいけれど、酒場のマスターが用意してくれるお酒のためだけのおつまみも絶品だった。さすがはアレックスさんで、頼んだお酒にぴったりの肴を見繕ってくれるのだ。
「マスター、ナルヴィアチーズの盛り合わせもう一つお願い!」
 今日のお勧めがすっかり気に入ってしまったわたしは、自分の欲に忠実におかわりを所望する。はいはい只今、とカウンターの向こうから返事が返ってきたその時、背後にふと人の気配を感じた。
「アレックス、クラッカーも頼む。それと辛口の赤を」
 聞き慣れた声に振り向くと、そこには件の評をくださった先輩騎士が立っていた。
「あれ。エルバート様、お一人ですか」
 きっちりと後ろに流した髪ときりっとした双眸から、一見いかにも堅物といったような印象を与えるこの人は、実のところは気のいい兄貴肌の持ち主である。もちろん力量の方だって折り紙つきで、リース様やウォード隊長からの信頼も厚く、わたしのような新米騎士たちからも広く慕われていた。ただ、とある理由で隊長からは少しだけ目をつけられているような気もするけれど……それは別の話だということにしておこう。
「まあな。少し邪魔するぞ」
 隣の椅子を引いて、エルバート様はそこに腰を落ち着けた。それからこちらに一瞥をくれ、呆れたように小さく笑う。
「またこんなところに入り浸って……お前も困った奴だな」
「あなたこそ、クリス様と食事に行っていたんじゃないんですか? いいんですかこんなところにいて」
 “こんなところ”はないじゃないですか、と注文の品を並べる店主の嘆きは二人で綺麗に無視させていただく。しょげた顔のアレックスさんからグラスを受け取りながら、先輩騎士は深々とため息を吐いた。
「……それがな、機嫌を損ねてしまった」
 ぽつりとこぼして杯を呷る彼を横目に、今度はわたしの方が内心でため息を吐く。
 そんなことだろうとは思ったのだ。それで先に帰られてしまったんだろう。相変わらずこの人も懲りないなあ、と思う。
 彼がウォード隊長に目をつけられているように見える理由というのはこれだった。エルバート様は、隊長の娘であるクリス様に懸想している。男女の機微だとかそういうものにはめっぽう疎い隊長のことだから、エルバート様の気持ちそれ自体に気付いているかどうかと言えば微妙なところだ。けれども何かと娘の側にいることの多い男に対して、多少複雑な思いを抱いていたとしてもおかしくはないだろう。
 父娘の間にちょっとした不和がある――というよりは、クリス様の方が隊長に対して思うところがあるのか頑なな態度をとり続けている――とはいっても、隊長にとって彼女が大切な娘であることに変わりはないのだ。信頼できる騎士としてエルバート様のことを認めてはいても、娘の相手としてはまた別なのかもしれない。
「どうせまた変なことを言ったんでしょう」
「少しからかっただけさ」
「……気持ちをほぐそうとしているつもりなんでしょうけど、あの方には逆効果ですよ。真面目で貞淑な人に失礼なことばっかり言って、エルバート様ってばそのうち隊長みたいになるんじゃないですか?」
 隊長の無神経とは少し違うけれども。
 この人の場合は、好きな相手ほどちょっかいを出したくなる、という心理が余計に働きすぎている気がする。
「俺が? おいおい、冗談は止してくれ……」
「十分あり得ます。もうちょっと女心が分かるようにならないと、クリス様に嫌われても知らないんですからねー」
「……ナマエ」
「そんな顔しなくても。『少しからかっただけ』じゃないですか」
 ――好きな相手ほどちょっかいを出したいのは、わたしも同じことなのだけれど。
 この人にこういう口を利く人間なんて、わたしの他にはレオンくらいしかいないはずだ。窘められてもやめる気になれないのだから、本当のところはわたしもこの人に小言を言える立場ではないんだと思う。
 ただ、見込みが一切ないからこそ、わたしは戯れで満足しているのだ。大いに見込みがあるくせに想い人をからかって遊んでいる困った人とは違うんだから、このくらいは大目に見てもらったところできっと罰は当たらないだろう。ヴェリア神は、慈愛の女神なのだから。
「……相変わらずいい性格だな、お前は。黙っていれば、少しは可愛げもあろうものを」
「やだ褒められた! さっどうぞどうぞ色男さん、お酌いたしましょう」
 言いながら、中身の減った彼のグラスにお酒を注ぎ足す。わたしの耳は、都合のいい時に都合のいいことしか聞こえなくなるのだ。
「……全く」
 特大のため息も聞こえないことにして、瓶を置いた手でクラッカーをかすめ取る。香ばしいそれを頬張りながら、少し前に城下町で偶然目撃した――食堂から出てきたクリス様に向かって、エルバート様が「あまり食べ過ぎると太るぞ」なんてひどい発言をしていた光景を、なんとなく思い出した。

「……彼女も、」
 半分ほど干したグラスを置いて、エルバート様はそう口を開いた。
 怒って帰られたのが効いているのか、普段よりもいくらか酒の進みが速いように見える。
「お前くらいに、力の抜き方を心得ていればいいんだがな」
「ああ……そうですねえ」
 けれどもそれが出来ないのが、クリス様のクリス様たる所以であるような気がした。
 なかなかどうして、あの生真面目な人を寛がせるのは難しいのだ。隊長とのことも含めて、エルバート様が彼女のために色々と心を砕いているのはよく知っている。それが未だ実を結んでいないのは、この人が格好をつけようとしすぎるせいだとわたしは思う。
「……でも、エルバート様もエルバート様ですよ」
「どういう意味だ?」
「回りくどいことしてないで、さっさと好きだって言えばいいじゃないですか」
 彼女だって、本当は満更でもないのだ。
 だから一思いに告白してしまえばいい。誰にも迷惑をかけまいと、痛みも苦しみも自分の中に溜め込んでしまいがちなクリス様が躊躇いなく甘えられるような存在に、早くなってしまえばいいのだ。そしてついでに隊長からもいじめられればもっといい。そうなれば、からかい甲斐だってずっと上がろうというものだ。
「こんな状況でか」
「こんな状況だからこそ、です」
 こんな、が指すものはあまりに広すぎて自分でもよく分からないくらいだった。
 ベルウィック同盟軍の戦況は相変わらず芳しくない。そして我らがシノン騎士団ひとつをとっても、財政難に人員不足、おまけに何故か愚王からは目の敵にされ、ひどい任務ばかり負わされるときたものだ。
「……だって、リース様をお守りするためなら何でもするし、リース様の命令ならやっぱり何でもするでしょう、わたしたち。だから……こういうことはあんまり言いたくないけど、いつどうなったっておかしくはないんですから」
 だからできるうちにできることを、という考えは、少し即物的に過ぎるんだろうか。
 それでも、あの時ああしていたらと後悔することになるよりはずっといい。わたしの方はどうせ叶わない恋なのだ、だったらこの人が幸せになるのを見届けたいし、万が一惚気だしたりなんてしようものなら、これでもかというくらいに冷やかしてやりたい、なんて思ってしまう。
「……確かに、お前の言うことにも一理ある」
「でしょう。だったら早いとこ、」
「だが」
 優しく諭すような、それでいてきっぱりとした声がわたしを遮った。
 その横顔に浮かぶ「騎士」としての姿に、不意を突かれたような気分になる。特別な計らいなんて本当は何も必要なくて、こういうふとした瞬間に見せる表情の方がよっぽど胸を打つだなんて、格好つけたがりのこの人はきっと気付きもしないんだろう。
「俺もそう簡単に倒れるつもりはないぞ。ひよっこ共には、まだまだ騎士団を任せてはおけないからな」
 頼もしいパラディンの顔をされたら、途端にひよっこは何も言えなくなってしまう。戦場でのこの人に、わたしはどうしたって敵いっこないのだ。
「……安心しろ。お前たちのことは、必ず俺が守ってやるさ」
 こんな台詞で不覚にもときめいている辺り、我ながら世話ないこととは思うけれども。
 だけど調子になんて乗らせてあげない。決めさせてなんてやるものか。恋は男と女の死闘だ、なんてレオンの主張ではないけれど、付け入る隙を見せる方が悪いに決まっている。だって、相手の油断を誘って斬り込めと教えてくれたのは、他でもないこの人なんだから。
「うわ、何かキザ……」
「おい!」
 なんてったってわたしも彼と同じ、好きな相手をからかいたくてたまらない性分なのだ。
「……でも、やっぱり大事なことは、伝えられる時に伝えておいた方がいいと思うんですよ」
「……そういうものか?」
「そういうものです。……それにほら、たとえ振られたとしても大丈夫ですよ。その時には、わたしがちゃーんと慰めてあげますから」
 ――身体で。
 悪戯心が囁くままにそう言い添えてみると、隣に座る色男は思いっ切りワインを吹き出して、げほげほと騒々しくむせ始めたのだった。
「きったないなあ。何やってるんですかもう」
「ナ、ナマエ、お前いい加減に……げほげほっ!」
 格好つけのあなたが見せる情けないところなんて、わたしだけが知っていればいい。