Aa ↔ Aa
離れられない
たとえば占いだとかジンクスだとか、おまじないだとか。
わたしたちくらいの年頃の女の子というのは、何かとそういうものを好みがちであると思う。
別にだから何だというわけでもないし、それはそれで構わないのだけれど、だからってわたしまでがそうだと思ってもらっては困るのだ。わたしはそんなものにはまったく興味がないし、くだらないと思うし、そんなものを当てにしたり頼りにしたり、振り回されて一喜一憂している暇があったら、もっと自分のためになるようなことに時間を使うべきだと思っている。
だから、この学校の変な伝統であるフェンスに結びつけられた南京錠の山も、わたしにとってはほとんど理解出来ないようなものだった。
大体、「愛の隔壁」だとか「誓いの錠」だなんて、よくもそんな恥ずかしい名前を付けたものだと思う。
こんな南京錠ごときで関係が上手くいってたまるものか。バカらしい。仮にこのくだらない伝統に倣って南京錠をぶらさげた二人に後々幸せが訪れたのだとして、そうしたら彼らはそれを南京錠のお陰だとでもいうのだろうか。だったら余計にバカらしい。
――というようなことを、一息で口にしたばかりだというのに。
この恥ずかしい名前の付いたフェンスと、恥ずかしい名前の付いた錠前の山を隔てた先にいる男は、なんとも得意気な表情を浮かべている。その理由なんて分かりきっていた。
鈍く光る金属の表面に書かれている名前の片側半分はバラバラなものの、もう半分は一様に「藤代誠二」とこの男の名前が書かれている、だからなのだ。
こんなことはとっくに知っていたけれど、曲がりなりにもコイツとそういう関係にあるわたしとしては、いい気分になれないことは確かだった。卒業を間近に控えているからか、前にも増して数が増えたような気がする。そもそもこれは、好き合っている同士の名前を書くものじゃなかったんだろうか。いつの間に縁結びの願掛けになったのだろう。
「……ほんと、くっだらない」
言っておくけれど、別にわたしのおまじない嫌いは、この男の名前が書かれた大量の南京錠に起因しているわけじゃない。
「ヤキモチ?」
「ばっ、バカなこと言わないでよ……!」
だから違うっていうのに。
いくら否定しても、楽しそうな笑みは崩れるどころかますます深くなるばかりだった。
「心配しなくても、俺はなまえのことしか好きじゃないって!」
「だから、そういうことをいちいち言わない!!」
この恥ずかしい男を一発叩いてやりたいのに、愛の隔壁が邪魔をしてくれるおかげでそれも叶わない。
どうしてそんなとんでもないことを、恥じらいもなく口に出来てしまうのだろう。
そうじゃなくても、わたしはコイツの言うような意味では心配なんて少しもしていないのに。別にいい気になっているつもりも自惚れているつもりもない。ただ、コイツの方が、わたしに心配する間も与えないくらいにいつもいつも、ストレートなことを口にしてくるからなのだ。だから、一緒にいて悔しいだとか苛々するだとか思うことは時々――というよりしょっちゅうあっても、それでも不安になったことは一度もなかった。
素直じゃないわたしとは正反対で、この男は本当に分かりやすいから。
「なあなあ」
言いながら、フェンスの網目の間から指先だけを伸ばしてくる。
この網目に手を通そうとするのが自殺行為であるということは、身をもって経験済みだった。もちろんわたしではなく、この男が。
その時は、力任せに無理やり手首を捻じ込んだ結果、一度通ったはいいけれど今度は引っこめることが出来なくなったのだ。そしてこの男はしばらくの間フェンスと格闘する破目になっていたのだけれど、この時あまりの間抜けっぷりに、わたしは珍しく笑いに笑ってしまったのだった。そうしたら、慌てていたはずのコイツが「なまえのそんなところ初めて見た!」だとかなんとか言って大喜びし始めたものだから、結局わたしは不機嫌モードに突入することになったのだったっけ。改めて思い返すと、妙に恥ずかしくなってくる。
「手!」
「イヤ」
「……ちぇっ」
不服そうに呟きつつも、存外あっさりと指を引かせた。
自分で拒んでおきながらそれをつまらないと思ってしまうのが、相当身勝手なことだと分かってはいる。そう思うくらいなら最初からその指を掴んでいれば良かったのだと、そんなことは分かっているのだ。
わたしだって、素直になりたくないわけじゃない。
けれども今まで十五年間もずっと付き合ってきたこの意固地な性格は、今更簡単に変えられるものではなかった。あの時あんなに意地を張っていなければ良かった、と、この先になって後悔するだろうことは目に見えていたのに。こんな風に何も考えずコイツと一緒にいられるような時間は、これからきっと少なくなってしまうから。
この男はこれからもずっと、サッカーと生きていくのだ。
今だって選抜だとか海外遠征だとか、スポーツの方面に疎いわたしには想像もつかないくらい大きなスケールで活躍しているし、プロ入りは確定だなんて言われているし、実際にもう本人のところに話は来ているのだという。高等部への進学と同時にすぐそうなるのかどうかまでは分からないけれど、Jリーグに入ったら今の比じゃないくらいにサッカー漬けの日々になるんだろう。わたしはもちろんそれを応援するつもりだし(でも表には出してやらない)、それにそういうコイツを見ているのも、まあその、正直に言って嫌いじゃない。
ただ、時々こういうことを考えると、いつもわたしの近くで笑っているこの男をどこか遠いひとだと感じてしまうのだった。
それは不安や心配じゃなくて、少し寂しいだけだ。こんなこと、本当は認めたくないけれど。
「なまえー」
返事はしなかった。
出来なかったと言った方が、きっと正しい。
ついうっかりと感傷的になってしまったこんな時、この男は必ずわたしの名前を呼ぶ。変なところで勘が鋭いのか、それとも単なる偶然なのか、とにかくコイツはいつもそうだった。そしてそうされると、それまでの一抹の寂しさはたちまちどこかへ飛んでいってしまうのだ。
こういう辺り、わたしも大概コイツと同じような単純構造なのかもしれない。悔しいからそんなことも、やっぱり認めてやらないのだけれど。
「俺、いいもん持ってるんだけど!」
そう言って、この男がポケットから取り出したもの。
それは、件の南京錠だった。
よく見なくても、その表面には癖のある大きい字で二人分の名前が記されてある。コイツとわたしの名前が。
「……あんたわたしの話聞いてたの?」
「うんまあ聞いてたけど。でもいーじゃん、卒業記念ってことでさ」
こんな恥ずかしい記念があるかだとか、人に見られるじゃないかだとか。
頭を過ぎた言葉は、結局どれも口から出てはこなかった。
「別に俺だって、あんな伝説当てにしてるわけじゃないよ」
「え?」
目の前の男は背伸びをして、フェンスに付けられたどの錠よりも高い位置に、手の中のそれを掛けようとする。
「だって、こんなんなくても俺となまえはずっと一緒にいるに決まってるし!」
根拠なんてないのに、これ以上ないくらい自慢げにそう言い切るのだ。
でも、だからこそわたしは信じるんだろう。
コイツの言葉と、最上級の笑顔とを。
カチン、と小さな施錠の音がした。ちなみに鍵はもう捨てたから、と、どうでもいいようなよくないようなことも付け足してくる。
「……つーことで、」
途端にフェンスが大きく揺れた。
何事かと思えば、目の前の網の向こうには靴の裏側が映る。視界に落ちる影、軋む金網の音。散らばる鍵の群れを器用に避けながら、柵を登り始める姿。
このフェンスの高さは約四メートルだ。この男に限って足を滑らせたりなんてことはないんだろうけれど、ちょっと裏の方まで迂回すれば抜け道があるのに。呆れたように見上げるわたしの視線の先、いとも簡単に制覇されてしまった境界はもう意味を成さない。そのままこちら側をさっさと下りてくると、この困った男は嫌味なくらいに華麗な着地をしてみせたのだった。
「これからもよろしくお願いします!」
――ああもう、これだからこの男は。
「返事は?」
わざわざ聞いたりしなくたって、分かっているくせに。
答えなんてもう知ってるよって、そのニヤけた顔に大きく書いてあるんじゃない。
あんたばっかりがわたしを好きなわけじゃないんだって。
離れられないのは、わたしの方なんだって。
「……しょうがないから、ずっとよろしくしてあげる!」
わたしがあんたにべた惚れなんだって、自信満々でいるくせに。