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花の浮橋

 視界の中に、鮮やかな黄金色を探すようになったのはいつからだっただろう。
 そうしている自分に気が付いたのは最近のことだったけれど、それよりもずっと前から、無意識に彼の姿を追っていたようにも思えた。

 その男は気位の高い自信家だった。
 けれども決して傲岸不遜ではなく、礼節はきちんと弁えていたし、物腰は丁寧で仕草も流麗。刀を相手に育ちの良さも何もあったものではないが、人間であればさぞや立派な家庭で大切に育てられたのだろう、と思わせるような品格の持ち主だった。
 歴史を守るための戦いに力を貸してくれる刀剣男士たちは、なまえにとっては臣というより仲間や同志といった存在に近い。それでも恭しく臣下然とした態度を取る者も少なくない中で、彼はそうではなかった。そうではなかったが、よく尽くしてくれる刀だった。
 部隊長を命じれば、いつも期待以上の戦果を上げてくる。買い物に行く、と言えば自ら同行を申し出てくれるし、刀装作りは手際良くこなし、遠征を頼めば文句ひとつ言わずに了承してくれる。馬や畑の世話に関しては、不平不満の二つや三つはこぼしていたけれど、彼が与えられた仕事に手を抜くことはなかった。
 蜂須賀虎徹は、なまえの初めての刀だった。
 この場所に集った誰よりも長く同じ時を過ごした、誰よりもなまえを理解してくれる刀だった。
 なまえにとってただ一振り、特別な想いを抱く刀だった。

「……主?」
 訝るような声に呼ばれて、失敗した、と思った。
 執務室の襖を開けっ放しにしていたこともそうであれば、近付いてくる足音に気付かなかったことも、俯いて座りながら浮かないとでも形容されるような表情をしていたであろうことも。
 振り向いた先には、藤色の長い髪を一つに結い上げ、愛用の鎧と同じ黄金色の着物に身を包んだ男が立っている。よりにもよって、なぜ彼の現れた瞬間に溜め息など吐いてしまったのか。そして他でもないこの男のことを考えていたまさにその時に、なぜ当の本人が目の前に現れるのだろう。
「どうしたんだ?」
 訪ねてくるのならせめてもう少し前か後かにしてほしかった、と理不尽に非難めいた思いは、向けられた気遣わしげな視線とぶつかってすぐに霧散した。
 入れ替わるように頭をもたげる、心を砕いてくれて嬉しいと思う気持ちと、それだけでは足りないと思う気持ち。
 蜂須賀虎徹という刀は誰よりもなまえを理解し、誰より先にこの身を心を案じてくれる。けれど、その理由をなまえは知らない。第一の刀だという使命感が彼にそうさせるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。戦いに対する彼の信念は分かっているつもりだが、主に――自分に対する彼の行動原理など推し量るべくもないのだ。そうしてなまえは、覗き込むこともできないそこにいつだって「主だから」以上の何かを求めている。
「……ううん、何でもないよ。ちょっとぼんやりしてただけ」
 ――あなたのことを考えていたら苦しくなって、どうしたらいいのか分からなくなってしまったの。
 本当は言い訳よりも先に浮かんでいた本心をかき消すように、なまえは首を振って答えた。
「最近毎日いろいろあるし、疲れてるのかも」
「……そのようだね」
 そんな言葉で納得を得られるとは思っていなかったが、どうやら追及は先延ばしにしてくれたらしい。
 室内を横切り、縁側に面した障子を開け放って、惜しげもなく注がれ始めた陽光を背に受けながら、男は穏やかに微笑んだ。
「今日は朝から籠りきりだろう? 少し外へ出ようか。桜もまだ残っているよ」
 同じように笑って頷くことは、できただろうか。
 彼の優しさに触れる度に、特別でありたいという願いが暴れ出す。いっそのこと立ち上がった膝から転がり落ちてくれればきっと楽になれるのに、手招きの方へ一歩ずつ進めば進むほどにそれは大きくなる。
 庭に出したままになっていた突っ掛けは、足の裏をじわりと焦がすように熱かった。

 やわらかな午後の日差しを受けて、隣を歩く着物の上を光の粒が跳ねている。
 男の言った通り、桜は満開の時期こそ過ぎてはいるものの、まだそれなりには枝を賑やかしていて、散り忘れと呼ぶのには少し早すぎるようだった。
「何だか急にあったかくなったね」
「ああ。きっと、あっと言う間に夏が来るんだろうね」
 まだ雪解けの前に審神者の任を与えられたなまえの、この本丸で迎える二度目の春。それは、なまえの就任の日に顕現された蜂須賀にとっても同じことになる。
 最初の頃は季節を味わう余裕すらなかったけれど、目まぐるしく過ぎていく日々の中、常に傍らに在り続けてくれた刀になまえはいつしか恋をした。
 一年を少し超える歳月は長いようで短かったのに、気が付けば胸の内に秘めたそれは、両手に抱えきれないほどに膨れ上がっていた。惚れた腫れたとはよく言ったものだ、となまえは思う。潰すこともできないうちに、熱と痛みを伴ってどんどん肥大していくそれはまるで腫れ物だ。
「主」
「うん?」
「……まさか、俺に隠し事ができるとは思っていないだろう?」
 男が歩みを止めて、なまえもそれに倣う。
 蜂須賀は決して短気ではないが、だからと言って気の長い方でもなかった。
 言い訳の利かないような場面に居合わせられたのはつい先程が初めてのことだったが、なまえのこんな調子は昨日今日に始まったことでもないし、今まで猶予をくれたことに感謝すべきなのかもしれない。誤魔化す準備など、少しもできてはいなかったけれど。
「話してくれないなんて、珍しいじゃないか」
 そうと言わせるくらい、なまえが真っ先に頼ってきたのは他でもなくこの男だ。
 事の大小を問わず彼に持ちかけた相談は、最早数えきれない。戦いのこと、金策のこと、毎日の食事に内番の組み合わせ――そして、男士たちとの関係のこと。その中にたった一人、挙がることのなかった名前。一度も口に出すことのなかった、“あなたとわたしのこと”。胸の奥がざわざわする。抱えた腫れ物がまた、熱を訴え疼き始める。
 このどうしようもない心の内を、全て明け渡してしまいたい。けれど今まで通りの関係を失いたくない。二度と元に戻れなくなるのが怖い。それでも彼の特別になりたい。
 ひとひらの残花が、池の面にふわりと舞い落ちた。
 長く危うげに保たれていた平衡は、大きな手がなまえのそれを労わるように拾った瞬間に、音もなく崩れ去っていった。

「わたし、蜂須賀が好きだよ」
 あまりに唐突な、あまりに脈絡のない言葉だった。
 男が目を瞠ったことだけは分かった。それ以上は、彼の顔を見ていることもできなかった。繋がったばかりの指先を、なまえは自ら手放した。
「……ごめん、困るよね。いきなりこんなこと言われても、さ」
 何より叶えたかったはずの願いを口にした途端、その重さに耐えられなくなったのは自分の方だった。
 自嘲したくなるほどの臆病さは、昔から何も変わっていない。戦いに送り出すのが怖い、みんなが傷ついて帰ってくるのが怖い――この仕事に就いてまだ間もない頃、そんな泣き言をこぼしたなまえに蜂須賀は笑って、それでいい、主は臆病でいいんだと言ってくれた。それを認めてくれた彼の前ですら、この様なのだ。
「受け入れてくれなくていい。忘れてくれていい。ただ、伝えたかっただけだから」
 戦術も未だに身につかないくせに、逃げの布石を打つことだけは一人前だなんて笑うしかない。その一方で、なまえにはこれで良かったのだとも思えた。
「……本当にごめんね。明日からは、ちゃんといつも通りに戻るから」
 これ以上飼い続けていたら、きっと心臓を内側から食い破られていただろう。潰した痕は消えずに残るのかもしれないが、この手を包み込んでいる熱ならば、いつかは忘れてしまえるはずだ。
 ――……この手、を?

「主」
 確かに離れたはずだった。それが今、逃げられないほどの力に捕まっている。
 あるじ。
 意志を感じさせる声にもう一度呼ばれて、俯いたままではいられなかった。恐る恐る見上げた、薄い萌葱の瞳。それは驚くほどにやわらかくなまえを映していた。
「受け入れてくれなくていい、なんて言わないでくれないか。それなら、俺の気持ちはどこへ行ったらいい?」
 今度はなまえが瞠目する番だった。だが、焦点を合わせる間もないくらいに、たちまち視界はぼやけて滲む。
 彼の言葉を理解したのは、頭より身体の方が先だったようだ。
「……参ったな。主にそんな顔をさせるなんて、真作の名が泣いてしまうね」
 緩やかな浮遊感を覚えた後、煌びやかな着物に隠された逞しい腕の中になまえはいた。思わず嗚咽を漏らしそうになる背中を撫でてくれるその手つきは、まるで幼子をあやすかのようだった。
 知らない温度ではないはずなのだ。この恋に気付く前から、戦いへの不安に駆られた自分を蜂須賀がこうして甘やかしてくれることは幾度かあった。なのにどうして、今はこんなにも熱いと思うのだろう。耳元を揺らす声音が、違って聞こえるのだろう。
「……覚えているかい? あの日、あなたは寸分の迷いもなく、俺をその手に選んでくれた」
 忘れるはずもない。
 目の前に並べられた五振りの刀剣。未だ人のかたちを得る前の彼を一目見た瞬間に、なまえはこれだと決めたのだ。
「戦もまともに知らないようだけど、見る目だけはあるじゃないか、なんてね。偉そうなことを考えながら、本当はとても嬉しかったんだ」
 触れずとも感じた、その刀から溢れ出る矜持に、なまえは己の運命を託すことにした。この刀なら、きっと自分を導いてくれる。外れてばかりの第六感は、この時ばかりは何より正しかった。
「あれからずっと、あなたは俺を信じ続けてくれた」
 信じていたのはなまえばかりではない。蜂須賀もまた、頼りない主を誰より傍で支え続けてくれた。仲間たちを引っ張って、こんな自分に付いてきてくれた。だからここまで歩いて来られた。だから、こんなにも好きになった。
「主の一番の刀は、この蜂須賀虎徹だ。……でも、これからはもっと近くで、あなたを支えさせてほしい」

 視界の中に、輝く黄金色をいつだって探していた。
 右も左も分からないこの手を引いて、進むべき道を照らし続けてくれた鮮やかな光に抱いたこの想いは、或いは必然だったのかもしれない。
 ――そして、それは今。
「ずっとあなたを想っていたよ。俺を選んでくれてありがとう、なまえ」
 両肩に手を添えられて、そっと身体が離される。
 やがて重なった二つの影を祝福するように、穏やかに吹いた風の中を桜吹雪が舞っていた。