Aa ↔ Aa

magnetic world

 ぱちん、ぱちん。
 誰もいない教室に、ステープラーの音が響いている。
 校庭の方からはときどき野球部の暑苦しい掛け声が聞こえてきていた。小さく開けた窓の向こうの空は、まだ明るい。

 明日の学年集会で使う冊子を作ってくれ、との雑用を仰せつかったのは、帰りのホームルームが終わった直後のことだ。
 たまたま日直だったわたしは、たまたま今日まで冊子のことを忘れていたらしい担任からそれを頼まれた。そしてわたしと一緒に日直だった男がさっさと帰ってしまったせいで、こうして放課後の教室で一人プリントを束にして留めるという作業をするに至ったのだった。といっても、本来ならばここで一緒にプリントと戦っているはずの男も、決してわたしに無断で帰ったというわけではない。「これからどうしても外せねえ用事あるんだ、悪い!」と両手を合わせて拝まれてしまっては、仕方がなかったのだ。わたしだって鬼じゃないのだし、それらいの寛大さは持ち合わせているつもりだった。
 目の前に積まれた数種類のプリントの山は、ようやく元の半分の高さまで減ったというところだ。
 一枚一枚拾ってその都度留めていくよりは、全ての紙を順番に重ねてしまってからまとめて留めた方が効率的だったかもしれない、と今更ながらに気が付いた。
 要領の悪さに俄然がっかりしながら、少し休憩するつもりで窓際の自分の席から立ち上がる。それから窓のすぐ前まで近付いて、何とはなしに校庭の方に目を向けた。その時、だった。
「……は、」
 間抜けな声が出てしまったのは仕方のないことだと思う。
 わたしの視線の先には、手をつないで仲睦まじい様子で歩いている一組の男女が小さく見える。視力はかなりいい方だから自信を持って言えるけれど、その男の方は数十分前にわたしに雑用を押し付けてさっさと帰っていった、あの藤岡だった。
 ……彼の言う外せない用事とは、デートのことだったのだ。
 ああ、そう言えばあのお調子者は最近、彼女が出来たとうるさく騒いでいたっけ。
 途端に苛立ちが募り始めてくる。女なんて、ちょっとくらい待たせておけばいいじゃないか。恋人を待っている時間も楽しいのだと、最近読んだ雑誌か何かに書いてあった気がする。生憎わたしにそんな経験はないのだけれども。そうだ、そういう相手もいないわたしが一人寂しくプリントを綴じている間に、あのちゃらちゃらした男はよりにもよってデートだなんて、本当にいいご身分だ。ここからでは細かい表情までは分からないのに、どうにもあの男が鼻の下を伸ばしているように見える。藤岡のくせに生意気だ。
「……腹立つなあ」
 多少理不尽と言えなくもない不満も覚えつつ、ついそんな心の内を呟いてしまったそのとき。
「何が?」
「!?」
 独り言に反応を返されて、ぎょっとしながら振り返る。
 ドア枠に寄りかかるようにして立っていたのは、クラスメイトの横山だった。
 だいたいクラスに一人か二人、何を考えているのかよく分からないやつというのはいるもので、横山平馬という男はまさにその一人だった。
 超が付くほどマイペースで、掴みどころがなくて、表情を変えることだって少なくて、だけどぼうっとしているように見えて意外とそうでもない。口数は多い方ではなくて、でもまったくの無口というわけでもなく、喋る時は淡々と喋る。それから、実はサッカーがとてつもなく上手で、部活なんてレベルじゃ到底おさまらない彼はクラブチームに所属しているほどらしいのだけれど、スポーツ少年という言葉から一般的に喚起されるようなさわやかなイメージとはどこか離れている。それがこの男だった。
 わたしは去年から横山と同じクラスだった。どちらかと言えば話す方ではあると思うし、普通の会話も出来ることには出来る。だけどやっぱり彼が何を言いたいのか分からないという時はしばしばあって、結局は彼に対する「よく分からないやつ」という認識はわたしの中では変わっていなかった。
 横山はすたすたとわたしの横まで歩いてくる。その目が答えを促しているように思えたから、
「……あれ、」
 窓の向こうの小憎たらしい男を指差した。紳士ぶっているのか何なのか、藤岡はキャラでもないのに彼女の荷物を持ってあげている。
「藤岡だ」
 横山もすぐにそれと分かったらしい。
「そう、藤岡」
「女と歩いてる」
「うん」
 横山はそのまま、藤岡たちが歩いているのをずっと見ているようだった。
 それきり口を開く様子もなかったけれど、この男の行動が読めないのはいつものことだ。わたしは席に戻って、止まっていた作業を再開させることにしたのだが。
「好きなの?」
 出し抜けに問われて、思わず手を止めてしまった。
 けれども主語も目的語も欠落したその問いらしきものは、圧倒的に言葉が足りない。
「……は?」
「藤岡。好きなの?」
 聞き返してみても横山の言葉にはあまり進歩がなかったけれど、彼の言いたいことは分かった。
「まさか」
 わたしが藤岡に好意を持っていて、だから女と歩いていたあの男に腹を立てていたのか、と。横山はそう聞きたいのだ。
 他人のそういう事柄になんて無頓着なように見えるのに、こんなことを尋ねられるとは意外だった。いや、でもこの男のことだから特に何も考えてはいなくて、思いついたままに言ってみただけなのかもしれない。そっちの公算の方が高そうだ。でもどちらにしても、そんなとてつもない誤解をされてはたまらない。
「日直の仕事サボってデートなんかしてるってことが不愉快なだけだよ。どうしても外せない用事だ、って言うから仕方なく帰らせてやったのに。大体、わたしああいうチャラチャラした男はタイプじゃないし」
「ふーん」
 自分から聞いたくせに、さして興味もなさそうな返事だ。やっぱり思いつきの発言だったのだろう。別に構いはしない、この男はこういうやつなんだから。
「よかった」
 ただ、彼が次に発した言葉には多分に引っかかるものがあった。
 ――よかった?
 よかったって、どういう意味だろう。わたしの言ったことに対する感想が、よかった。じゃあ何だ、横山の疑問を否定したことが「よかった」? 藤岡みたいな男がわたしのタイプじゃないことが「よかった」? それって、どういう。
「苗字が藤岡を好きじゃなくてよかった、って言った」
「べ、別に聞いてないから……!」
 それから、二人しかいない教室の空気はどこかおかしくなった。
 でも、そう感じているのはきっとわたしだけで、半分だけ見える横山の顔は相変わらず何を考えているのか読ませてくれない。野球部の掛け声ももう聞こえなくなっていて、しばらくの間はカサカサと紙の擦れる音だけが響いていた。
 奇妙な静寂を破ったのは、短い足音とその後で聞こえた椅子を引く音。ずっと窓辺に立っていた横山は気が済んだのか、プリントだらけのわたしの隣の席に座ったのだ。
 おかしくなった空気も、彼の言った言葉の意味も、作業に集中することでなんとか考えないようにしていた。
 けれどもすぐ真横から不躾に注がれる視線にいよいよ耐えられなくなって、わたしはついに口を開いてしまったのだった。
「……何してるの?」
「苗字が雑用してんの見てる」
「……ただ見てるくらいだったら、手伝ってくれればいいのに」
「やだ」
 やだ、って。そんな返しがあるだろうか。
 確かにわたしだって本当に手伝ってくれることを期待していたわけではなく、沈黙を作らないためだけに言ったのではあるけれど。
「だって、俺が手伝ったら早く終わっちゃうだろ」
「わたしは早く帰りたいの」
「俺は帰ってほしくないの」
 そう言うだけでは足りなかったのか。さっきの反省を踏まえてせっかく順番に重ねつつあったプリントを、横山は再びそれぞれの山に戻し始めた。
「……ちょっと、いくらわたしでも怒るよ?」
「ああ、そういえば苗字の怒ったとこってあんまり見たことないな」
 興味あるかも。
 しれっとして言うこの男を怒る気になんて、もうなれない。たとえ彼がそのままわたしの数分の努力を全て無に帰したとしても、やっぱりそうは出来ないと思う。
 口を開けば開くほど、どつぼに嵌まっていくような気がした。横山の考えていることなんて分からないはずだったのに、分かろうともしていなかったのに、今になって言葉の裏まで深読みしてしまう。わたしが藤岡を好きじゃなくてよかった理由。帰って欲しくない、その理由。
 わたしは、この不可思議な男に好かれているのだろうか。この不可思議な男は、さっきの藤岡と女の子のように、わたしとなりたいと思っているのだろうか。
 でも、そうだとしたらそれなりの兆候だとか雰囲気だとか、もう少しそういうものを見せてくれてもいいような気がするのだ。たとえば年相応の少年らしく頬を赤らめてみたりだとか、緊張してみたりだとか。なのに、この男からそういったものは少しも感じられない。やっぱり横山は飄々としていて、彼のペースを崩さない。

「……横山って」
「ん?」
「わたしのこと好きなの?」
「うん」
 考えなしに聞いてしまったわたしもどうかしているのかもしれない。
 けれどこの男もこの男だ。"横山って、サッカー好きなの?"なんて、わたしは彼にそんな事を尋ねたわけでもないのに。まるでそう聞いた時に返ってくるであろう反応と同じくらいの淡白さでもって、彼はこれ以上ないくらいに短い返答をよこしてきた。
 こういう場面にしては、横山の周りの空気には緊張感があまりにも足りない。
 それでもわたしは、自身の鼓動が速くなっているという事実から目を背けることはもう出来なかった。
「……気付くの遅すぎ」
 やれやれといった調子で呟かれる。
 横山にしては珍しく、この言葉にだけは声音にはっきりと感情が表れていた。
「だ、だってそんな素振り、」
「してたつもりだけど。思いっきり」
「そう言われても……!」
「鈍感」
 何を考えているのか分からない横山にだけは言われたくない言葉だった。
 これもマイペース王子の気まぐれなのだと、ここで考えることを止めてしまえばよかったのに、わたしの頭はぐるぐると変な方向に回り続ける。
 彼の言うように、わたしは本当に鈍感なんだろうか。でも、それはやっぱり横山が分かりづらいせいだ。読めない表情のその裏側で、この男はずっとわたしが好きだという思いを抱えていたのだろうか。改めてそんなことを考えるとどうにかなりそうになってくる。何なんだろうこれは、本当に恥ずかしい。
 横山なんて、訳の分からないクラスメイトであるはずなのに。どうしてあんなことを聞いてしまったんだろう。どうしよう。どうしたらいいのだろう。
 彼にはどうしたって張り詰めた空気が足りない。頬を赤らめてみたり、緊張してみたり、そんなのは全部わたしの方じゃないか。これじゃあ、まるでわたしが――。
「っ」
 浮かんできた思考を振り払うようにして、慌ててプリントを手に取ったのがまずかった。
 人差し指を紙で切ってしまったのだ。この傷特有の、ひりひりした嫌な痛みに顔を顰める。思いのほか深くやってしまったらしく、指先は赤く滲んでしまっていた。
「あ、血出てる」
「分かってるよ!」
 紙を汚してしまうから、このままだと作業を続けられない。
 確かポーチに絆創膏を入れていたはずだと、机の横に掛けている鞄の中に手を伸ばそうとした――はずだったのに、
「もうほんとに何なの!!」
 負傷した右手は横山にさっさと取られてしまった。
 痛いのと恥ずかしいのと訳が分からないのとで、わたしはもう半分自棄になっていた。半分泣きそうにもなっていた。
「何って、消毒しないと」
 そんなわたしに追い打ちをかけるかのように、横山は相変わらずの無表情でそう言い放つ。
 まさか、と思った時にはもう遅かった。
 ――熱い、痛い、沁みる。どうしてくれるんだろう。けれどもびりびりと痺れるのは緩く食まれた指先だけじゃなかった。ざわりとした感覚は背筋を通って、頭の芯まで麻痺させるよう。わたしの手を掴む彼のそれはひんやりと冷たいのに、傷口を辿るじんわりとした温度の高いこと。そこに神経が集中しているかのように、疼く指がどくどくと脈打っている。
 おそらくかつてないほど顔を真っ赤にさせて、わたしは現在進行形で信じられない行動に及んでいるクラスメイトを見つめていた。横山の視線はわたしを捉えてはいないのに、こちらからは目を逸らすことも出来ない。やがて指先が熱から解放されても、横山は掴んだ手を放してはくれなかった。
 彼はしばらくそのままで、わたしの指をじっと見ていた。
 時間にしてどれくらいのものだったのかは分からないけれど、わたしにはそれが何十分にも思えた。そしてようやく彼の視線が、わたしのそれと交差したと思ったとき。
 横山は、ふっと口元を緩めた。
「苗字、かわいい」
 こんな風に笑うなんて、知らなかった。
 とんでもないことをさらりと言ってのける横山の方が、よっぽどその言葉に相応しいと思ってしまった。
 どうしよう。横山なんて、訳の分からないクラスメイトだったはずなのに。
 言葉よりも笑みの方に、わたしの心臓は大きく跳ね上がる。それはまるで、ゲームセットを告げる合図でもあるかのようだった。

「あ」
「……っ、今度は、なに、」
「いま俺のこと好きになった」

 この男はとんだ食わせ者だった。
 いつからだろう。「よかった」と彼が言った時か、この教室に現れた時か。それとも実はもっと前で、再び同じクラスになった今年の四月からか、その前の年、彼を知ったと同時に、なのか。いつからかわたしはこの不可思議な横山ワールドに巻き込まれてしまっていて、今ではもうここから脱出することなんて出来ないみたいだ。
 だって、横山は手を放してくれない。
「せっかく好きになってもらったんだから本当はこのまま色々したいけど、初めてのキスが血の味になるのは嫌だろうからこれ以上は我慢しとく」
 読ませない瞳の向こうに、知ることのなかった光を見てしまったからだろうか。
 この男は相変わらず淡々としてとんでもないことを言っているのに、わたしの危機感はどうやら麻痺してしまったらしい。もう既に、彼の調子がうつってしまったのかもしれない。
「あ、でも別にいいってんなら遠慮なくするけど。どうする?」
 彼の意外な気の短さを知る前に、わたしはさっさとその答えを出さなければならなかったというのに。