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ストラテジー

「……いい加減に妥協したらどうなんだ」
 うんざりしたような表情と口調で、火村は紫煙と共にその言葉を吐き出した。
 決して綺麗だとは言えない自身の研究室、書類の散乱した机の向こうには、これまた不満げな顔をした女子学生が立っている。
 彼女と不毛な押し問答を繰り広げ始めてから、いったいどれくらい時間が経っただろうか。
「だってやっぱり仮説が甘いと思、」
「それはもう聞き飽きた」
 研究会に出すことになったレポートの事で相談がある、と言って、なまえが自分を頼ってきたのは昨日のことだ。
 教え子の一人で、講義には毎回一番前の席に座っている彼女のことは前々から強く印象に残っていた。たとえば指名するにしても、何かを手伝わせるにしても、最前列の学生というのは概してその標的にしやすいものである。彼女もその例に漏れず、授業中に何らかのやりとりをすることは多々あった。
 そんな日々を繰り返すうち、今ではすっかり彼女に懐かれてしまったというわけである。
「……何度言ったら解る。こいつは完璧だ。気味が悪いほどにな」
 溜息混じりにそう告げても、納得いかないと言わんばかりの表情を向けてくる。
 「完璧」だとか「非の打ち所がない」だとか、自分が決して頻繁には口にしない称賛をいくら浴びせても、彼女は一向にそれを聞き入れようとしなかった。
 ……俺がこれだけ褒めてやっているなんて、相当なことなんだぜ。
 いくらトップクラスの成績で入学してきた学生が書いたものとは言え、こんなに出来のいいレポートなど今まで見たことがない。それなのになまえはと言えば、空き時間の度にここへ来てはああでもないこうでもないと喚いているのだ。
 ――それでも追い返したりしないのは、そんな彼女を大して迷惑だとは思っていないからなのだろうが。
「俺が太鼓判を押してるっていうのに不服なのか?」
「でも、」
「デモもストライキもねぇよ」
 教え子との会話ではそれなりの口調が勝手に出てくるものだが、なまえを相手にする時には話し方が自然と砕けてしまう。数少ない友人である推理作家と話す時のそれと同じだった。
「いいか苗字。これは本当にとんでもなく良くできた代物なんだ」
「えー……」
「それを否定するとなると、今度はお前の判断能力が欠如していると言わざるを得ない」
 ここへ来てようやく、もう何度聞いたか知れないくらいの「でも」「けど」「だって」が終わりをみせた。
 代わりに口を尖らせているものの、なまえの表情には諦めの色が伺える。
「……」
「認める気になったか?」
「……不本意ですけど。でも火村センセに判断力のない教え子だって思われるのはもっと嫌だから、」
 これでいいことにします。
 仕方がなく妥協してやった、というような態度を見せつつも、自身の出した成果を褒められた嬉しさは隠し切れていないのだ。大学生といっても、自分にとってみればまだまだ子供である。"火村センセ"の前ではとりわけ出来のいい生徒でいたがるなんて、可愛いものではないか。
「そりゃ結構。……丁度お前が納得してくれたところでタイムアウトだな」
 ふと見遣った時計の針は、次の講義の開始時間が迫ったことを告げている。
 もう少しこのまま他愛もない話をして過ごしていたいという気はしたが、次も授業のない自分に対して彼女にはしっかりと講義が入っていた。それに、彼女のおかげでずいぶんと頓挫していた――といっても悪い気はしていないのだが――片付けなければいけない仕事が溜まっているはずだ。
「次は確かフランス語だったろ。遅れるんじゃねぇぞ」
「……ちぇっ」
 子供じみた反応に、お前は一体幾つなんだと苦笑する。
 廊下へつながるドアに手をかけた彼女の後ろ姿へ、緩んだままの表情で声を掛けた。
「苗字」
「はい?」
「これからは、レポート云々なんてもっともらしい理由はいらねぇ。お前が来たい時に来りゃあいい」
 ま、気が向いたら構ってやらないでもないしな。
 短くなった煙草を灰皿に押し付けながらそう付け足せば、
「い、言ってる意味が分からないんですけどっ」
 なまえはそんな言葉と一緒に、思いきり焦ったような様子を返してくれる。
 ……これだから、彼女は面白いのだ。
 わざと余計に大きな音を立ててドアを閉め、足早に部屋を出て行ったなまえの立っていた辺りをぼんやりと見つめながら、箱から取り出した新しい一本に火をつけた。
 ああ、もしかしたら、これは少しやり過ぎたかもしれないな。
 いつもの彼女なら必ず、「失礼しました!」と律儀にぺこりと頭を下げてからこの部屋を退出していたはずなのだが。
「……いかん、機嫌を損ねちまったか?」
 そう呟きながらも、助教授は心底楽しそうにその口許を歪めたのだった。