Aa ↔ Aa

And he smiles.

 ここは英都大学社会学部、火村助教授の研究室。
 取材で近くまで出てきたそのついでに、ふと友人のご尊顔でも拝んでやろうかと思い立った私は、こうして今出川にある母校まで足を運んでいた。
 この時期は毎度のことながら、火村は学生の提出したお粗末なレポートの山に気を腐らせているはずである。そんな友人の気分転換をさせてやろう――というのは建前で、本音はインスタントコーヒーでも飲みながら足休めをさせて頂きたいと思ってのことだった。
「何だ。お前、また俺の城を喫茶店代わりに使おうってのか」
 その魂胆はあっさりと見抜かれてしまったのだが、助教授は講義中ということもなく、アポなしの訪問者は運よく休憩所を得るに至ったのである。

「あれ、お客さん?」
 ノックの音とともに女子学生が扉から顔を覗かせたのは、鞄を置いて上着を脱ぎ、ちょうど椅子に腰掛けたときだった。
 もしかして、研究か何かの相談でもあるのだろうか。だとしたら邪魔になってしまうかもしれない――などとそんなことを思ったのだが、
「ああ、丁度いいところに来た」
 言いながら火村は彼女を手招いた。どうやら、私がここにいることに大した問題はないらしい。
 失礼します、と言いながら研究室へと足を踏み入れたのは、「花も恥じらう」なんて形容詞の似合う色白でほっそりとした少女だった。こちらを向いた彼女はにっこりと会釈をしてくれる。好感の持てるその笑顔に、自然とこちらにも笑みが浮かんだ。
「せっかくだから、一応紹介しておくか」
 とんとん、と煙草の灰を灰皿に落としながら、助教授は言った。
「苗字君だ。うちのゼミの学生だが、雑用係でもあるな」 そして今度は彼女――苗字さん――を向くと、「彼が、噂の有栖川先生」
 雑用係という言葉に突っ込みを入れようと思ったら、それ以上に看過しがたい発言が飛び出したではないか。噂って何だ、噂って。
「初めまして、有栖川先生。苗字なまえです。お話は火村先生からよく伺ってます」
「こちらこそ、ご丁寧にどうもありがとう」
 こんな可愛らしい少女にまさか変な話をしているわけじゃないだろうな、と火村に視線を投げたが、助教授は何やら含みのある表情を浮かべている。
 ちくしょう、悪い予感しかしないぞ、火村め。
「ご著書、拝読させていただきました。とても面白かったです」
「えっ! 本当ですか」
 悪い予感は見事に外れた。
「はい。今までミステリって読んだことがなかったんですが、先生の作品を読んで興味が出ました」
 ……ベタ褒めではないか。
 ちょっとした休憩のつもりが、まさかこんな嬉しい収穫を得ることになるとは。思わず顔がにやけてしまいそうになる。
 今までミステリを読んだことがなかったのに、私の作品で興味を持ってくれただなんて、こんなに名誉なことがあるだろうか――……
「よし、世辞はその辺でいいから、コーヒーを淹れてくれ」
 火村が楽しそうに言った。
 せっかく人が喜びに浸っているところを台無しにしてくれやがって、この野郎。
「はいはい。でも、本当にお世辞じゃないですからね、有栖川先生」
 向けられた笑顔に救われた思いがした。
「感謝しろよ、アリス。ここの棚にお前の本を入れてやった俺のお陰で、物好きな読者が一人増えたんだから」
 物好きは余計だ。
 声にも出そうとしたところで、「火村センセってば失礼ね」と、苗字嬢が電気ポットから湯の音を立てながら私の気持ちを代弁してくれた。
「それはそうと、お前、自分の学生を召使い代わりに使こてるんか?」
「召使いとは人聞きが悪いな。正当な労働対価はきっちり払ってるんだ、文句を付けられる筋合いはないぜ。な?」
 二人分のコーヒーを手にした少女に火村は同意を求めるが、彼女はわざとらしく首を傾げてみせる。
「割に合わないような気もしますけどね?」
「ちっ、可愛くねえ」
 先ほど挨拶をしてくれた時には、私は苗字嬢にすごく丁寧な印象を抱いたものだった。しかし、火村に対する彼女の態度を見ていると、年相応かそれよりも若干幼いような感じを受ける。そして助教授の方もまた、生徒へ応対するにしては多分にくだけたような調子だった。この教え子とは、なかなか親しいのかもしれない。
「どうぞ、有栖川先生」
「ありがとう」
 ウェイトレス役の彼女がいるだけで、この煙草臭い研究室も十分喫茶店になり得るのではないか。そんなくだらないことを考えながら、受け取ったカップを口に運んだその時だった。
「それにしても、火村大センセイにもちゃーんと猫以外のご友人がいらっしゃるというのは嘘じゃなかったんですね! 安心しましたよわたし」
 危うく吹き出すかと思った。
 うら若き女子大生にこんな風にからかわれてしまっては、『臨床犯罪学者』の火村英生助教授も面目丸潰れである。
「……とんでもない奴だろ。教授に対する敬意ってもんが全くありゃしない。そのくせテストやらレポートやらはしっかり点数持っていきやがって、生意気ったらねぇよ」
「助教授でしょ、助・教・授!」
 私はもう腹を抱えるしかなかった。
 俺の周りにはろくな奴がいねぇとぼやきながら、火村は眉間に皺を寄せて彼女にキャメルの煙を吹きかけている。
「ちょっと、寿命縮んだら火村センセのせいにしますからね」
「だったらまだピンピンしてるうちに、そっちの奥の机を何とかしてくれると有り難い」
 火村が顎で示すのにつられて、私もついそちらの方向に目を遣る。
 レポートと思しき崩れかけた書類の山に、カバーの半分剥がれた専門書。論文のメモやら封筒やらキャメルの空き箱やらで、その机の上はひどい有様になっていた。
「……ひっどい。こないだわたしが片付けたばっかりなのに」
 どうやったら短期間でこんなぐちゃぐちゃに出来るんですか。
 不服そうにぶつぶつと文句を呟きながらも、彼女は早速作業に取り掛かっていた。雑用係の本領発揮といったところだろうか。
 そして私は、彼女を映す火村の目がとても穏やかなものであることに気が付いたのだった。
 それは見たことのない表情というわけではなく――そう、彼が自身の下宿にて、猫を愛でている時のそれに似ていたのだが。
「可愛い助手がおってええやないか、先生」
 散らかりきった机と格闘する少女に聞こえないように、小さな声で告げる。
「へぇ、あんな生意気小娘がお前の好みだなんて知らなかったよ」
 彼好みの温度にまでぬるくなったコーヒーを手に、助教授は大層ご機嫌麗しいようだった。