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ストレイ・キャッツ
夜の十時を回れば、街の人通りも疎らになる。
静まり返った帰り道に響く自分の足音のみを聞きながら、学生時代から世話になり続けている下宿へと向かって男は歩いていた。
自動車通勤に慣れてしまった身としては、電車でのそれはどうにも不便なものだ。修理に出しているベンツが早く戻ってくればいいのだが。
そんなことを考えながら、角を曲がった時だった。
(……ん?)
前方数メートル先、道路の端で誰かがうずくまっている。
こちらに背を向ける形になっているその姿は、おそらく若い女のものだ。
「……捨てられちゃったのね、かわいそうに」
どうかしたのかと駆け寄るその前に、えらく聞き覚えのある声が耳に届いた。その声音はどこか寂しげなものではあったが、呂律が怪しいということもなく、特に具合が悪いわけではなさそうだ。改めて見てみれば、その後ろ姿にも非常によく覚えがあった。
「……苗字か?」
「えっ」
ほぼ確信を持って声を掛けながら、傍らまで歩みを進める。影の主は弾かれたように立ち上がってこちらを振り向いた。
「……なんだ、火村センセじゃないですか。びっくりした」
わざとらしく息を吐きながら言う彼女――苗字なまえは、英都大学の学生だった。
何十人という学生を相手にする中で彼女の顔も名前もしっかり覚えてしまっているのは、なまえが自分のゼミに所属しているからだ。しかし、彼女を他の学生と一括りにしてただの教え子と呼んでしまうのには違和感があった。そう呼ぶには、彼女と自分とはやや親しすぎるのだ。
一回生向きの授業を持っていた時から、彼女は自分の講義にはことごとく出席していた。成績もなかなか好ましく、ゼミに入ってきたときは熱心な学生を迎えられたことを素直に嬉しく感じたものだが、今では大層懐かれてしまっていた。何かにつけて研究室にやって来る彼女は今やそこを自身の休憩室のように使っている。そんな有り様を少々まずいとは思いつつ、結局どうにかする気も起こらないのは自分の気紛れだということにしておこう。
それにしても、彼女がこちら側に住んでいるとは知らなかった。
「お前、こんな時間に何してんだ」
「ちょっとバイトが長引いちゃったんですよ。だからさっさと帰ろうと思ってたんですけど……」
ちら、と下方に落ちたなまえの目線を追う。
彼女の足許には、小さな段ボールと、それから。
「……猫か」
呟いた言葉に答えるように、鈴を転がしたような鳴き声が返ってくる。
種類までははっきりと分からないが、明らかに外国産の猫だった。それも、生まれてすぐというわけでもない成猫。
段ボールにぞんざいに貼り付けられた紙に、「拾ってください」との文字が申し訳程度に書かれている。いつ捨てられたのかは分からないが、こうして大人しく箱の中にいたことは幸運だろう。生まれてからずっと人の手で育てられてきたであろう飼い猫が、急に野生に還れるわけもないのだから。
なまえは再び身を屈めた。
猫の額をいとおしげに撫で回しながらも、唇からは小さな溜息をこぼす。
思えば、彼女の暗い横顔を見た覚えなどはほとんどなかった。
いつもの、教師に対する敬意の全く感じられない奔放すぎる姿とも、授業の中で真面目に議論に参加する姿とも違う。今はただ、ひたすらに物悲しそうな。
「……責任が持てないなら、飼うべきじゃないのに」
苦々しげな呟き声が響く。
「身勝手すぎるじゃない。都合が悪くなったら捨てるだなんて」
「……ああ、全くだな」
小さな生き物を腕に抱き上げ、なまえは立ち上がった。
人懐こい性格をしているのだろう、猫は腕の中で心地良さそうに喉を鳴らした。だが、それが愛らしい姿を見せるほどに、少女の表情は陰っていく。
「……先生、誰か拾ってくれそうな人知りません?」
「……」
火村は思考を巡らせた。
この不幸な捨て猫を下宿に連れ帰るか否か――しかし四匹ともなれば、さすがに世話も大変だ。
おそらく大家は首を横に振らないだろうとは思う。けれども自分が家にいられる時間は圧倒的に少ないのだ。結局は、あの心優しい老婦人に面倒を任せることになってしまう。それに、温室で育った外国産の猫が野良上がりの日本猫たちの中に簡単に溶け込める気はしなかった。……はて、どうしたものか。
返事が無いのを、なまえはそのままの意味に受け取ったらしい。
「……学生会館じゃなかったら、面倒見てあげられるんだけどなあ。こっそり連れて帰ったのがバレて追い出されでもしたら、今度はわたしが路頭に迷うもの」
自身の置かれた境遇を知ってか知らずか、無邪気な鳴き声を上げる一匹。
一体どれほど前からなまえがここに佇んでいたのかは分からないが、この調子では彼女がここから立ち去れるとは思えなかった。仮にそれが出来たとしても、しばらくはこの猫のことで気を揉み続けることになるだろう。彼女のそういう性格はよく知るところだ。
「分かった、こうしよう」
少女と猫とが、一緒になってこちらを向いた。
「お前はこいつを飼ってくれる人間を探す。学内でも近所でも誰でもいい、それはお前に任せる。そして里親が見つかるまでの間、俺がこいつを預かろう。どうだ?」
社交性もあって人当たりのいいこの少女ならば、きっといい飼い主を見つけることが出来るはずだ。そして何より、彼女は途中で投げ出すようなことは絶対にしないだろうという確信が火村にはあった。
それまでの間に預かるだけならば、なんとかならないこともないだろう。
「……まあ何だ、放っておけねぇからな」
もちろん、放っておけないのは猫だけではなかった。
しかしながら、当の彼女は目をぱちくりと瞬かせ、なんとも妙な顔をしている。別に、笑顔全開で「ありがとう先生!」なんて反応を返してくれることを期待していたわけなどではないのだが、それにしたってもっとこう、嬉しそうにしてくれてもいいのではないだろうか。
「おい、その妙ちきりんな反応はどう解釈すりゃあいいんだ」
え、だとか、いや、だとかの意味をなさない声ばかりが聞こえてくる。
少々大袈裟なくらいに眉を顰める、その動きだけで質し直すと、やっとで言葉らしい言葉が返ってきた。
「や、そうしてくれるならわたしも助かる、っていうか嬉しいんですけど。……でも、先生猫なんか飼えるんですか?」
――植物ですら、三日で枯らしそうな顔してるのに。
そいつはいったいどんな顔なんだと突っ込んでやりたかったが、どうやら先程までの消沈した様子にとって代わられるほど、本気で訝られてしまっているらしい。思わず笑い出しそうになった。
「失礼な奴だな。俺は愛猫家なんだぜ」
となれば、まずは証拠を示さなくては。
未だに釈然としない様子のなまえの腕から、そっと猫を受け取って胸元で抱える。やはり人懐こいようで、再びゴロゴロと喉を鳴らしながら頭を擦りつけてきた。
「ふぅん、意外なこともあるのね……」
彼女もようやく納得がいったようだ。
ほっとした表情でこちらに向かって手を伸ばし、よしよしと猫の頭を撫でる。
「良かったね、しばらく火村センセが可愛がってくれ……、……」
「どうした?」
ふと手の動きを止めて言葉を切り、猫と自分の顔とを見比べた彼女は、
「……やっぱり似合わない」
と一言。
火村は猫を片手に抱き直し、空いた手で少女の頭に拳骨をひとつ落とした。途端にぎゃあと悲鳴が上がる。
「ちょっ、そんな風に扱ったらだめですからね!」
「まさか。お前ならともかく、こんな可愛い猫を苛めたりするか」
面白くなさそうに頬を膨らませてみせる。あまりに子供子供したその仕草に、今度こそ本当に吹き出すかと思った。
「よし、帰るぞ。家はどっちだ? もう遅い時間だし、仕方ないから送ってやる」
「え、別にいいですよ、そんなに遠くもないし」
「馬鹿言え、こんな物騒な世の中だぜ。いくらお前でも、若い女が一人で夜道を歩いてちゃ危ねぇだろうが」
「いくらお前でも、ってどういう意味ですか!」
「そのままの意味さ。な?」
「ニャー」
「……火村センセの所にいたら、その子、性格悪くなりそうだわ」
夜分には少しだけ騒がしい賑やかな声は、帰途につく二人と一匹から途切れることなく聞こえ続けていた。