Aa ↔ Aa
人のかたちを得て初めて覚えた感情は、それはそれは男を翻弄した。
やわらかい微笑みを向けられれば、それだけで面白いように心が高揚したし、他の刀剣と談笑している姿を見れば、それだけで胸のどこかがちくりと痛んだ。夢の中では何度も本懐を遂げているのに、現実の自分となれば気の利いた会話もできず、気付けばいつも兄の話題ばかりを口にしているといった有様で、当の想い人から「膝丸はいつも髭切のことばっかりなんだから」と言われてしまった時には頭を抱えたくなった。
毎日がそんな調子だったので、恋とかいう名であるらしいそれに悩んでいた時分には、想いも通わせてもなお悩みが尽きぬとはまるで思ってもみなかった。
なまえの方から恋情を明かされるなどとは全く予想もしていないことだったが、やっとのことで同じ想いだと答えた自分に、己が主は泣いて笑いながら「絶対振られると思ってた」などと言ったものだから色恋とは本当にままならない。それでも、日々この身を煩悶させていた片思いとやらには最も望ましい形で区切りがついたはずであって、これからは彼女の隣で穏やかな気持ちで過ごしていける――と思っていたのだがそうそう上手くはいかないのが色恋沙汰であった。
元来の性格からか、なまえは控えめで我侭も言わないし、一緒にいてくれるだけで幸せだ、と言う。
膝丸としてもその想いに偽りはないのだが、やはり男として顕現した身である以上、手を出したいという気持ちは多少なりともある。しかし相手は刀とは違う生身の人間、それも若い娘だ。手荒にするつもりなど毛頭ないが、少し力を加えただけでどうにかなってしまうのではないかと思うと二の足を踏んでしまい、せっかく稀に所謂「いい感じ」の雰囲気になっても結局行動を起こすことはできないでいた。想いが通じ合ってからはもうふた月ほどが経っているが、未だに触れるだけの口づけから先へ進んでいない。
そこへさらに己を悩ませているのが、近日に迫った彼女の誕生日だった。
もちろん本丸として祝いの宴を催すことは決定済みで、本人には内密に刀剣たちで準備を進めている。豪勢な食事を用意する他には、給金を出し合って以前からなまえの欲しがっていた「ほうむべーかりぃ」なるものを贈ることになった。何でもそれがあればいつでも焼きたてのパンを食べられるらしい。
しかし、いくら少なくはない額を出資しているとはいえ、まさかそれだけで終わらせるわけにはいくまい。仮にも恋人であるのだから、やはり何かそれらしい、彼女の喜ぶような贈り物は用意してやりたいと思う。が、千年刀をやっていようが若い娘の好みそうなものなど皆目見当もつかない。おまけにこの主、件のほうむべーかりぃが珍しいくらいで、物欲が薄いのかあれが欲しいこれが欲しいとも滅多に言わないのだ。いっそ花束でも贈ってみようか、と思いついたものの、どう考えても自分の柄ではないし恥ずかしすぎる。一体どうしたものか。
そうして、傍目からは気をおかしくしたと思われても仕方のないような様子で、うんうんと唸りながら敷地の中をあちらへこちらへをうろついていると、畑の方から一組の太刀が姿を現した。
敬愛して止まない己が兄と、この問題に覿面な答えをくれそうな伊達男。当番を終えたところなのだろう、ジャージ姿で歩いてくる二人は今の自分にとって救世主だった。
「兄者! 燭台切も……!」
助かったとばかりに駆け寄った膝丸に、彼らも笑顔を返す。
「やあ、うーんと……肘? じゃない、ええと……。……うん、やあ兄弟!」
と、差した光明が翳ったわけではないのだが、出端をくじかれた思いがした。
肘が出てくるのならもう一息ではないか。なぜそこで膝が出てこない。いやしかし、ひょっとするとこれは進歩と呼ぶべきなのではないか。
「ははは、君のお兄さんは相変わらずだね、膝丸くん」
笑いながらも、わざわざ名を出してくれる辺りが燭台切の優しさだと膝丸は思う。兄はと言えば、ああそうだったそうだった、とすっきりしたような顔をしていた。溜め息のひとつでも吐きたい気持ちになるが、こんな調子はいつものことだ、今は失意に暮れている場合ではない。
「ところで、深刻そうな顔してどうしたんだい?」
燭台切に問われ、膝丸は目下の悩みを打ち明けた。と言っても、進展が云々の話ではなく、贈り物の方である。
この男ならば、面白がって周りに吹聴するようなことはするまい。兄の方は……もしかすると悪気なく口を滑らせたりするかもしれないが、まあいいだろう。色事の相談など気恥ずかしくはあったが、二人とも親身に話を聞いてくれた。
「贈り物かあ。うーん、難しいこと考えないで、本人に聞けばいいんじゃない?」
「しかし兄者、それでは……」
大らかでさっぱりとした兄らしい意見ではある。
だが、鶴丸国永ではないにしろ、意表を突きたい、というような気持ちはあるのだ。それを上手く言葉で表すことはできないけれど。
「サプライズにならないし、正直あまり格好よくはないよね」
そうだ、さぷらいず。
それだという思いのままに頷くと、伊達男は人差し指を立てて微笑んでみせる。
「じゃあ、こういうのはどうかな」
この男が恋敵でなくてよかった、と、つくづくそう思わせるような笑みだった。
――燭台切の言うところによれば。
主を伴って買い物に行き、そこで彼女の様子を観察して、興味を惹かれていそうなものをリサーチ、要は偵察せよ、と。もう少し時間に余裕があれば別な手を使ってもいいのだが、なにぶん残り数日しかない、といった状況では分かりやすい方法がいいだろう、とのことだった。
そうと決まれば善は急げ。さっそく行動に移すべく、兄者への贈り物を選びたい、と言って膝丸はなまえを連れ出した。
唐突な話を疑う様子もなく、二人で出掛けられて嬉しいなあ、などと笑う彼女に、いとおしいやら申し訳ないやら複雑な気持ちになる。そういう理由で誘った以上は仕方がないのだが、素直な主は男物の店にばかり足を運ぼうとするものだから、なかなか目的を遂げることができずにいた。かと言って、連れ出した本当の意図に気付かれてしまってはさぷらいずが失敗に終わってしまう。なんとかして男物も女物も揃えた装飾品の店へ誘導できたときには、未だ肝心の目的も果たしていないのにどっと疲れてしまった。
俺は向こうの棚を見る、と言って距離を取り、主の様子を遠くから眺める。
なまえはしばらくはベルトやら何やらを見て回っていたが、ある棚の前でふと足を止めた。遠巻きでははっきりとは分からないが、どうやら首飾りの類が置かれているようだ。しばらく視線を動かした後、やがて彼女は一つの品を手に取ったので、すかさず持ち前の機動力でもって近寄った。戦であれば姿を隠すことにも自信はあるのだが、こんな狭い店ではどうしようもない。
「ああ、よそ見しててごめんね?」
詫びる必要など全くないのに、なまえは手にしていた銀細工の首飾りをさっさと元の場所に戻してしまった。綺麗だなあって思ったの、と言うくらいだから、気に入らなかったわけではないらしい。
「気にするな。こちらが付き合わせているのだし、欲しいものがあるならゆっくり見ていけばいいだろう」
そこで「じゃあ自分で買います」とでも言われたら今回の計画は台無しになるわけだが、幸いそんな事態に陥ることはなく、なまえは大丈夫だと首を振った。
「……そういえば、君はあまりそういった物を身に着けないのだな」
「だって、自分が着飾るのにお金使うくらいなら、食べ物でも買った方がみんなで楽しめるじゃない。その方がよっぽど有意義かな、って思っちゃうんだ」
まあ、興味がないわけじゃないんだけどね。
屈託なく笑う主の、こういう所にこそ心を打たれるのだ、と膝丸は思う。ほんの僅かなたまの贅沢よりも、なまえはいつだって刀剣のことが第一だ。主がいかに心を砕いてくれているか、この本丸に集った刀の誰もがそれを感じていることだろう。
その場を離れた後、なまえがもう一度先ほどの首飾りに視線をやったのを、膝丸は見逃さなかった。
***
主の生きる時代には、便利な道具が山ほどある。
デジタル時計なるものはそのひとつで、なまえ自身は無機質であまり好きではないと言っていたが、一分一秒を簡単に追えるのはいい。おかげで日付の変わるその瞬間に、彼女を訪ねることができたのだから。
襖の向こうへ声を掛けると、主は少し驚いた様子で出迎えてくれた。既に布団は敷かれていたが、まだ床に就いてはいなかったようだ。
「どうしたの?」
「……夜分に女の部屋を訪ねるなど、褒められたものでないことは承知の上だ。用が済んだらすぐに出ていく、少しだけいいだろうか」
「え、ああ、うん、どうぞ」
そうして室内へ招き入れてくれたなまえが座布団を引っぱり出す間もなく、膝丸は畳の上に正座した。改まった様子に主は些か面食らっていたようだったが、やがて向かい合うようにして彼女も腰を下ろす。
どうしたの、ともう一度首を傾げるなまえは幸い、自分がこうしてここへ来た理由に気付いている様子はない。深呼吸をひとつ、心の準備を整えてから、膝丸は口を開いた。
「主。誕生日おめでとう」
目の前の双眸が大きく見開かれる。それから、主はぱあっとかんばせを輝かせた。
「……覚えててくれたの? ありがとう、すごく嬉しい……!」
恋人の誕生日を忘れるはずがないだろう、なんて言葉はとても照れくさくて口にはできず、その代わりに懐から取り出した小箱をそっと差し出す。
「これは心ばかりの品だ。……開けてみてくれ」
プレゼントまで、と呟きながら膝丸の手からそれを受け取ったなまえは、そわそわした様子で丁寧に外側の包装を外していく。そうして小箱を開いた瞬間、彼女が息を飲んだのが分かった。
「うそ……これ……」
箱の中の首飾りと膝丸の顔とを何度か交互に見遣って、なまえはうわあ、と声を上げる。
「どうしよう、本当に? ねえ、今つけてみてもいい?」
「ああ、俺がしよう」
手の中の箱から首飾りを取り出し、留め具を外してなまえの首の後ろへ手を回す。
子供のようにはしゃぐ主の姿は珍しかった。本当にもらっていいの? こないだのお店でのこと覚えててくれたのね。嬉しい、ありがとう。そう繰り返しながら無邪気に喜ぶ姿が愛らしくて、いとおしくて。
金具を留めると、プレゼントを身に着けた主の姿を見るより先に、回した手のままに彼女の痩躯を抱き寄せていた。
「……主」
「う、ん?」
このような行動に出るとは思っていなかったのだろう、なまえの声音が少しだけ強張った。
誰より驚いているのは自分自身だ。だが、今は少しばかり、そういう気分になってしまっているらしい。
「……俺はこの通り、君に報いることが出来ていないかもしれん。だが、それでも心から、君を慕っている。その想いに偽りはない」
「膝丸……」
「誰より先に、君を祝いたかった」
ありがとう、と小さな声。背に添えられた手に、きゅうと軽く力が込められたのが分かる。
幸せだった。満たされていた。叶うことならいつまでもこのままでいたい、と願うほどに。けれども、ふとしたことから終わりの気配は訪れる。抱きしめた彼女の首元からふわりと漂う甘い香りで、入浴から間もないのであろうことに気付いてしまったとあっては、穏やかな幸福感の裏側で不穏な気持ちが頭をもたげてくる。情けないが動悸までしてきてしまった。これ以上はあまりよろしくない。妙な行動に及ぶ前に、この雰囲気を保ったままで幕引きとしなければ。名残惜しくはありながらも、膝丸は腕を解き、そっと身体を離した。
「……では、また明日。良い夢を」
後ろ髪を引かれてしまいそうで、また邪な思考に陥りかけた申し訳なさもあり、主の顔を見ないようにして立ち上がりかける。
その時、だった。
「……主?」
小さな手が、服の裾を掴んでいる。なまえは俯いていた。贈ったばかりの首飾りが、行燈の薄明りを反射してきらりと光っている。
「……帰らないで。そばにいて」
「っ……!?」
蚊の鳴くような声だった。
その肩は小さく震えている。緩慢に顔を上げた主の両の頬は、紛うことなく赤い。
落ちつけようとしたはずの動悸がいっそう激しくなった。何だこれは、どうしてこんなことになっているのだ。だが、たった一言でもって今の状況を作り出したのは、己ではなく。
「あのね、ネックレス、本当に嬉しかった。……けど」
――膝丸がプレゼント、が、いい。
その言葉の意味。
それが分からないほどの朴念仁ではない。彼女とて、それを分からずに言うほど子供ではない。だが、でも、しかし。
答えを問うように、期待と不安に満ちた瞳がこちらを見上げている。膝丸は知らず生唾を飲み込んだ。
「……いいのか。引き返せんぞ」
「わたし、ずっと待ってたんだよ」
ああ、これは、燭台切流に表現するならば――いや、そうでなくとも格好がつかない。男として。
最後まで背中を押されながら、それでも膝丸は畳の上になまえの痩躯を組み敷いた。
挽回が叶ったかどうかは、主のみが知るところである。