Aa ↔ Aa
dizzy
「マスター」
どこか甘ったるい声が、頭の上から降ってくる。
青い瞳に見下ろされるのがどうにも癇に障って、わたしは頑なに瞼を閉ざしたままでいた。
「……」
「またそれですか? 相変わらず強情だなあ」
おかしそうな声と同時に、ベッドが緩く軋む。塞いだ視界へ僅かに差し込んでいた光も、暗い影に覆われてしまう。
耳元にかかる吐息に、背が震えた。
どうかしている。
この数ヶ月、そう思うことは何度となくあったのだ。
何の変哲もないはずのソフトウェアが、実体化してパソコンから飛び出してきたことだとか。そんな決して有り得ない出来事に直面しておきながら、卒倒することもなければ気味悪がることもなく、不良品として製造元に連絡もしないまま、おまけにアンインストールさえもしなかったわたし自身だとか。この超常現象をなんとかしようとも考えず、結局ズルズルとこのボーカロイド――KAITOが実体として自分の側にいるという生活に順応してしまったことだって、よく考えてみればどうかしていると思う。そして何よりも、こんな風に組み敷かれている、ということが。
この状況に陥るのはこれが初めてだというわけではないけれども、そのこと自体がそもそもおかしい。
おかしいと、そう思えるだけの頭はある。けれどわたしは、それ以上のことを考えられずにいた。
「目を、開けてください?」
幼子をあやすようなトーンに、わたしが逆らえないことをこの男は知っている。
こういう時の彼の声には、何か危ない作用があるような気がしてならない。鼓膜を震わせる刺激が身体を伝って、全身が麻痺しているかのよう。
ディスプレイを前に、打ち込んだ曲を歌わせている時とはまるで違った。
「……ねえ、」
「何ですか? マスター」
目の前で、青い双眸がゆっくりと細められる。
嫌味なくらいに芝居がかったこういう仕草を、いったいどこで覚えてきたというのだろう。
「……どうしてこんな時ばっかり」
そういう声を出すのよ。
悔しさからか続きを口にすることが躊躇われて、わたしは言葉をすり替えた。
「……いつもは、ちゃんと歌ってくれないのに」
「それはマスターの修行が足りないからでしょう?」
間髪を入れずにそんな言葉が返ってくる。
けれども、わたしにはムッとする間すら与えられなかった。長い指が頬を辿る、擽られているかのような感触に再び、背筋が粟立つ。
マスター。
彼がわたしを呼ぶ時に使う言葉。主人を意味するその言葉は、なんて倒錯しているんだろう。
曲を作るわたし。それを歌うKAITO。わたしがいなければ、彼は歌を歌うことが出来ない。たとえ修行が足りないのだとしても、彼を生かすも殺すもわたし次第のはずだった、それなのに。
彼が歌うため"だけ"に存在するのではないと気付いてしまったあの時から、わたしたちは。
「カイト」
主従だなんて、わたしたちはそんな関係じゃない。
そこにいるのはソフトのKAITOではなく一人のカイトであって、わたしはマスターでも主人でも何でもなくって。
「……マスター?」
首を振る。
珍しく少し困ったような顔をして見せるカイトから目を逸らさずに、わたしは言葉を続けた。
「……名前、呼んでよ」
彼の表情が、忽ち笑みへと変わる。
「大好きですよ。僕の――なまえさん」