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梅雨時真っ只中という時分には珍しく、この日は一日中晴天に恵まれていた。
太陽の沈んだ後も空が機嫌を損ねる様子はまるでなく、頭上高く浮かんだ月は煌々と己の存在を主張している。
私室の縁側に腰掛け、この本丸で最も付き合いの長い刀と並んで、なまえはそれを見上げていた。
広間では主役の不在など気に留められることもなく、今もどんちゃん騒ぎが続けられているようだ。離れたこの場所にいてもなお、時折豪快な笑い声が聞こえてくる。
「……やれやれ、今日が何の日だと思っているのやら」
呆れたようにそうこぼした隣の男は、ああいった騒ぎをあまり好まない。対してなまえの方は、この男が「雅じゃない」とばっさり切り捨てる騒々しい宴の空気も決して嫌いではなかった。賑やかな刀剣たちの様子は、見ているだけでこちらを愉快な気分にさせてくれる。ただ、なまえはそれほど酒に強い性質ではなかったので、一緒になってふざけ合ったりするよりは彼らのそれを笑って見守るというのが常だった。
この日の宴は、なまえの生誕祝いということで刀剣たちが催してくれたものだったが、どのような名目であろうと最終的にはいつも特定の面子ばかりが生き残って、飲めや歌えの大騒ぎである。短刀たちが床に就く時間をとうに過ぎ、己の限界を弁えた者たちが一振りまた一振りと離脱していくと、そんな彼らに紛れてなまえもこっそりと広間を後にした。もう十分すぎるくらいに楽しませてもらったし、出来上がった酔っ払い連中に声を掛けられればいつまで付き合わされるか分かったものではないのだ。そうして私室に戻ったなまえだったが、寝支度をする時間にはまだ少しばかり早い。これから何をして過ごそうか、と考え始めたその時、まるで図ったかのように折好く部屋を訪ねてきたのがこの男、なまえが初めて手にした刀である歌仙兼定だった。
薄く湿気を含んだ暖かい夜風が肌に心地好い。確かに月見酒にはお誂え向きの宵だった。
酒器の値打ちなどなまえにはよく分からないが、手渡された繊細な切子細工のそれが高級な逸品であろうことくらいは窺える。男は手ずから酌をしてくれた。満たされた盃の中を、黄金の欠片がゆらゆらと踊る。
「うわあ、金箔入りじゃない」
「少し奥ゆかしさには欠けるけれどね。まあ、せっかくの祝い事だし、偶にはこういうのも悪くないだろう?」
そんな言い方をしながらも、己の見立てには絶対の自信を持っている歌仙だ。素直にそうとは認めないかもしれないが、きっとこの日のために選んでくれたのだろう。
「しかも美人のお酌まで付いてるなんて、ものすごい贅沢ね」
「……妙齢の娘が、親父臭いことを言わないでくれるかい」
男が呆れている隙に徳利を奪い取り、手酌をさせる前に注ぎ返す。互いに盃を掲げてから、小さく波打つ清酒に刀と主は口をつけた。
「美味しい!」
「それは良かった」
やわらかい口当たりに、鼻を抜ける芳醇な香り。甘味と辛味がよく調和した上品な味とすっとした喉通りの好さに、いくらでも飲めそうな気にさせられてしまいそうだ。が、この種の飲みやすい酒というのは得てして味よりもずっと度数が高いというもので、油断していてはすぐに酔い潰れてしまうだろう。さすがにこんな日にまで隣の男に面倒を掛けるのは避けたいところだ。
根が世話好きというよりは、単になまえが彼をやきもきさせているだけなのかもしれない。確かに雅に通じているかと言われればそうでもないし、むしろ花より団子を地で行くような主に対して思う所は大いにあるだろう、それでも何だかんだで歌仙は世話を焼いてくれた。小言は多いし説教も長い、嫌味の一つや二つを投げられることだって日常茶飯事だが、決してなまえを見限ることなく共に歩んできてくれたのだ。
「……ねえ、今日はありがとう」
この本丸で彼らと寝食を共にするようになってからは、毎日が特別であるようにも思っていたけれど、今日ばかりは本当に特別だった。
好物ばかりが並んだ食事に、頭を悩ませて選んでくれたであろう贈り物、そして抱えきれないほどの祝いの言葉。己がいかに果報者なのか、これでもかというくらいに思い知らされた一日だ。
「誕生日のこと、歌仙がみんなに話してくれたんでしょう?」
「……きみは変なところで慎ましいからね。普段はそうでもないけれど」
相変わらず余計な一言も添えられていたが、それさえ心地よく感じるのは酔いが回ってきているせいだろうか。
慎ましさがどうこうという話は置いておくことにしても、やれパーティーだプレゼントだとはしゃぐような年齢はもう過ぎてしまったし、わざわざ自分からそれを口にする理由もなかった。刀剣たちも刀剣たちで、自分がおよそ何百年生きている、というような感覚はあるようだが、使われて武功を立ててこその彼らは己が鍛ち上げられた日付それ自体にはあまり重きを置いていないのかもしれない。結局そういう話になった相手は唯一歌仙だけで、それも今となってはもう思い出せないような他愛もない会話の中、偶々何かの拍子にその話題になっただけだったような気がする。それでも彼は、律儀にその日を覚えていてくれた。
「あのね、歌仙」
「何だい?」
誰より多くの時間を共に過ごした、なまえの初めての一振り。
出だしから順風満帆だったとはとても言えない。時には喧嘩もしたし、叱られもすれば泣かされもした。けれども振り返ってみれば、そのどれもこれも欠かすことのできない大切な出来事だったように思える。
「わたしがこれまでなんとかやって来られたのは、あなたのお陰です。本当に、どうもありがとう」
こんなに気恥ずかしいことを言ってしまえるなんて、やはり酒が回ってきているようだ。
そしてそれは、男の方にはいっそう覿面だったらしい。歌仙は目を瞠ってしばらく固まった後、勢いよく顔を逸らして片手で口を覆った。顔色が分かるほど周囲は明るくないはずだが、その横顔がうっすらと染まっているように見えるのは都合の良い錯覚か、それとも。
「……一体どうしたんだ、改まって。珍しく殊勝なことじゃないか……」
憎まれ口もまるで勢いを失している。こんなに動揺してくれるとは、何だかずいぶんと貴重なものを見てしまったような気がするが、これはこれで気恥ずかしくもあった。
「やだ、それじゃあまるでわたしがいつも捻くれてるみたいじゃない」
「違いないだろう?」
「少なくとも歌仙ほどじゃないと思うけど……」
「ほら、そういうところが捻くれているんだ」
調子を取り戻すべく吹っ掛けてみれば、すぐにいつもの応酬。
一瞬の空白を挟み、やがてどちらからともなく抑え切れない声が漏れると、互いは転げるような笑いの発作に見舞われた。
「あー、笑った笑った。……けど、感謝してるのは本当だからね?」
「分かっているよ。……僕だって、きみと同じさ」
人のかたちを得るより前から、移ろいゆく日々の趣を感じ取ることはできたのだという。刀の身にも花の香は芳しく、鳥の囀りは清々しい。けれどもただの刀だった歌仙兼定は、筆を取る手を持たなかった。自ら世の風雅を探究する足を持たなかった。それを目覚めさせたのは、他でもなくなまえだった。
今や己には自由にできる身体がある。人に届くだけの声がある。だから伝えるのだ、と、男はそう言った。
「誕生日おめでとう、主。どうか末永く、よろしく頼むよ」
あと僅かも経てば、なまえの特別な一日は幕を閉じる。
いつも通りという言葉で括ってしまえそうな明日からの日常も、ひとつとして同じ頁のない自分たちの歴史だ。それが改変され、無かったことになるだなんて御免こうむりたい。
戦いは終わらない。それは良いことではないのかもしれない。けれど、叶うことならいつまでも、この幸せな場所でひとつずつ年を数えられたなら――。夜空を流れたひとすじの婚い星に、なまえはそう願わずにはいられなかった。