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trigger

 誰もいない教室は、まるでそこだけが世界から切り離されたようだった。
 窓辺に背を預ける黒川の後ろ、眩いばかりのオレンジ色は鮮烈すぎて、毒々しいとまで思えるほど。
 それから数歩離れたところで、わたしはただ立ち尽くすばかりだった。逆光のせいで表情は捉えづらいけれど、彼が笑っていることは疑いようもない。

 苦手だ、と。初めはそう思っていた。
 それは黒川柾輝という男に貼りついた、"問題児"というレッテルが先行していたこともあるのだと思う。風評なんて本当のところは当てにならないものだ、と頭では分かっていても、一度染みついたイメージを簡単に払拭出来るほどわたしは大人でもなかった。
 それが変わったのは、サッカーをしている彼の姿を目にしたとき。
 先輩目当ての友人に付き合うためだけに、興味もないまま足を運んだグラウンド。まさかそこで黒川に目を奪われることになるだなんて、その時のわたしは思ってもみなかった。けれども、隣で騒ぐ友人の黄色い声なんて少しも耳に入らないほどに、わたしは彼に釘付けになっていたのだ。
 ――楽しそう、だけど、それだけじゃない。
 闘志を剥き出しにしないくせに、それでいて底知れない何かを秘めているような。
 いつもの教室で、姿勢を崩して気だるそうに座っている彼はそこにはいなかった。
 練習試合が終わった後、黒川は一度だけこちらを振り向いた。
 思えば、彼と目が合ったのはその時が初めてだったかもしれない。その瞬間、黒川は確かにわたしに向けて口角を上げてみせたのだった。
 あれからだ。
 抱えきれない熱を無理矢理この手に掴まされたのは。
 空いた机の切なさを、屋上までの距離を、思い知らされたのは。
 知るはずのなかったものを知ってしまったわたしは、あれから今までずっと捕らわれたままでいる。

「なあ」
 低めの声が静寂を裂いた。
 お世辞にも目つきがいいとは言えない双眸は、真っ直ぐにこちらを向いていた。黒川の視線に、いつだってわたしは落ち着かなくさせられる。
「……なに、よ」
「もう腹括った方がいいんじゃねえの?」
 意図の掴めない言葉が余計に頭を混乱させた。
 放課後の無人の教室、強烈な西日。ただでさえこんな、いかにもといった舞台装置の中で二人きりにさせられておかしくなりそうだというのに。しかも、それでいてこの空間に甘さなんてものは存在していないのだ。緊張して喉が渇いて、身動きが取れないような切羽詰まった空気は今にもわたしを飲み込もうとしているようだった。
「……言ってる意味が分かんない」
 精一杯強がったはずの声は、自分でも泣きたくなるくらいに弱々しい。
 警鐘は最大音量で鳴り響いている。今更それが役に立つはずもなかった。ここから逃げられないことなど、わたしはもう知りすぎている。
「俺は満足いかねえんだけど」
「っだから、何が言いたいのよ……!」
 黒川が、喉の奥で笑った。
「いつまでビビってんのか、って話」
 ――ああ。
 この男には、全て、看破されていたのだ。
 どうしようもなく魅せられているくせに、それでもわたしは未だ黒川に踏み込めずにいる。
 そうしたいと思わなかったわけじゃない。けれど怖かったのだ。
 もう後戻りなんて出来ないほど、苛む熱に取りつかれていたから。それを失ってしまうくらいなら、焦がされるように痛みにさえずっと溺れていたかった。
 けれど、彼が、
 その先を望むというのなら。
「苗字」
 名を呼ぶ声が、一瞬にしてわたしの心を灼く。
 刹那、影が動いた。
 必要以上に響く上履きの音、視界から遮られていくオレンジ色。誰もいない教室は、確かに世界から切り離されていた。次第にくっきりと浮き彫りにされていく表情が瞬きすら忘れさせる。黒川の長身が、間近からわたしを見下ろした。もう、呼吸も出来ない。
「――かかって来いよ」
 不敵な笑みは、わたしを煽り立てるには十分過ぎるほどだった。
 持て余す熱に突き動かされるまま、爪先に込めた力で背伸びをして。まるで喧嘩でも売るみたいに、掴んだ白いシャツの胸倉を乱暴に引き寄せる。
 最後まで余裕を崩さないその顔に挑むように視線を突き刺して、わたしは黒川にキスをした。