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ハピネス

 微かに頬を撫でる風に目を覚ました。
 薄く開いた瞼の向こうは思いのほか明るく、橙色の光が未だ太陽の沈んでいないことを告げていた。
 一度目を閉じ、それから再びゆっくりと瞼を押し上げる。視界の端でカーテンが小さく揺れていた。先程までの行為の間に窓を開けていたはずもないのだから、自分が眠ってしまった後に彼がそうしたのだろうと思う。
 確かに今日は、初夏にしては気温が高かった。暑かった理由はそれだけではないのだけれど。
 眠っていた時間は、それほど長くはなさそうだ。
 中途半端な時刻に中途半端な長さの睡眠をとった割には、意識を霞ませるような余韻を引きずってはいない。ただ、身体の方はひどく気だるかった。下腹部には鈍い痛みがある。僅かな身動きをすることも億劫で、なまえは視線だけを横に倒した。
 ――すぐ傍らに、彼の寝顔がある。
 時には鋭い光を放ち、時には幼子を見守る保護者のようにして自分へと向けられる双眸は、今は穏やかに閉じられている。無防備な表情はそれでも端整なもので、思わず口から溜息がこぼれ落ちた。
 しばらく見入った後、視線をずらしていくと露わになった肩が目に入る。瞬間、今更ながらとてつもない恥ずかしさに襲われて、床を転げ回りたくなった。

 彼と自分とは、いわゆる幼馴染というやつだった。
 それが彼氏と彼女という関係に変わったのは中学の時で、それ以前もそれ以降今までも、大きな問題に悩むことなくずっと一緒に過ごして来られたように思う。
 同じベッドで寝ること自体は、初めてでも何でもない。隣で眠って、そうして手を繋いだまま朝を迎えたことは何度もあった。
 それ以上のことは今の今まで無かったのだが。
 中学生のうちは互いに、まだだ、という暗黙の了解のようなものがあった。そのせいだろうか。高校に上がってからしばらく経っても、なんとなくこのままでもいいような気がしていた自分と同じように、彼の方もそうなのではないかと勝手に思っていた。
 いつかはそういうことになるのだろうと、分かってはいたつもりだったけれど。少なくともなまえにとって、それは差し迫ったことではなかったのだ。
 ――それが、さっき、一線を越えてしまった。
 思い出すだけで、本当に恥ずかしくて仕方ない。
 鋭い瞳の奥に閃く熱情を見たのが初めてだったならば、あれほど熱っぽく名前を呼ばれたのも初めてだった。
 背中を粟立たせる未知の感覚、苦しげな息遣い。どうしようもなく求められているのが分かって、死んでしまうのではと思うほどに身体の震えが止まらなかった。訳も分からず泣きそうになりながら、目の前の背に必死で縋り付いた。
 ただ、そのどれも本当はひどく不確かで。
 それよりも、全てが終わった後。力が抜けきってぐったりした身体を、彼に預けたとき。
 幸せだと、思った。
 このまま一緒に居られるならば、何ひとつ変わらなくたって良かったはずだったのに。僅かな隙間に隔てられることもなしに肌を重ねることが、こんなにも。

 触れたい欲求のまま、浅黒い肌に手を伸ばした。
 指先をそっと頬に触れさせ、輪郭をなぞるように首元まで辿らせて。それだけでは飽き足らずに、もう一度手を頬に戻した。どちらかというと肌の色素が薄い自分とは、あまりにも色が違いすぎて何だかおかしい。
 面白がってぺたぺたと触っているうちに、ふと彼が身じろいだ。ゆるい軌道を描いていた動きを止め、なまえは触れていた手を静かに引かせる。
 やがて、彼はゆっくりと目を開いた。
「おはよ、マサキ」
 どう考えてもお早い時間ではないのだが。
 小さく笑いながら名を呼ぶと、彼は数回瞬きをしてこちらに顔を向けた。
「……おう」
 まだ少し眠たそうな目と視線が絡まる。……と、何を思ったのか、彼はふいと顔を背けてしまった。
「マサキ?」
 どうかしたのかと、顔色を窺うために首を持ち上げたところで、今度は勢いよく彼の身体ごとがなまえの方へ向けられた。否応無しに、伸びてきた腕に頭を抱え込まれる。胸元に額を押し付けさせる力は寝起きとは思えないほどで、身を捩ってみても拘束は解かれそうになかった。
 一体何なのだろう。それを質す前に、彼の方が口を開いた。
「……あー、」
「ちょっと、なに、」
「今こっち見んな。……ハズいから」
「え、」
 予想外の言葉に二の句が継げなくなる。
 この男が照れるだなんて、珍しいこともあったものだ。幼少時からの付き合いであるにもかかわらず、彼が照れているところなんて滅多に見なかった。
 けれど、それを拝ませてもらうせっかくの好機だというのに、なまえは動くことが出来なかった。
 抑えつけられているから、というだけではない。気恥ずかしさが伝染したのだ。
 普段から余裕綽々としていることの多い彼がこんな有様だと、どうも調子が狂ってしまう。つい今までだって、一人で思い出してはさんざん身悶えていたというのに。彼があんなことを言うものだから、また改めて先程のことを意識してしまったのだ。
「……」
「……」
 暫しの沈黙。
 破ったのは、彼の方だった。拘束する腕の力も同時に弛緩する。
「……身体、大丈夫か?」
「ん……、たぶん平気」
 痛みはあるし、疲労感もかなりのものだが、我慢できないというほどではない。
 それに重いのは身体だけで、気分は晴れやかなものだった。くすぐったいような不思議な空気は、忽ち笑いを誘発してしまいそうな。
「ね、なんか変だよね」
「……何が?」
「こういうのって、なんか、さ」
 言い終えると同時に、寝返りを打って彼に背を向けた。
 自分で口にしておきながら、あまりに抽象的で的を射ない言葉になんとなく居た堪れなくなってしまって、頭までをすっぽり布団の中に潜らせる。一瞬の空白の後、ぷっと吹き出す声が聞こえた。
「……分かるように喋れっての」
 ぽす、と布団の上から頭を叩かれた。
 そう言いながら、本当は彼にも言葉に表しがたい感情は伝わっているのだろうと思う。そんな気がしてならない。

「なまえ」
 ぎしりとベッドが揺れて、彼の起き上がる気配がした。
 ごそごそと聞こえていた衣擦れの音が止むのを待ってから、顔の上半分だけを恐る恐る上掛けから出す。そんな様子をおかしく思ったのか、彼には「お前何それ」と笑われてしまったけれども、それより視界に入った姿がきちんとワイシャツを身に付けていたことになまえは内心ほっとしていた。
 素肌を見るのが恥ずかしかっただなんて、この期に及んではもう今更な気もするのだけれども。
「飲みもん取って来るけど、希望は?」
「え、なんでもいいよ。……強いて言えば水?」
「何、お前そんなんでいいの」
「うん」
「分かった。その間に服着とけ。風邪引かれたら困るから」
「はいはい」
 生返事のつもりはなかったのに、制服のスカートとワイシャツを顔に投げつけられた。
 階下に降りる足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ゆるゆると身を起こす。緩慢な動きで床に手を伸ばし、散らばった残りの衣服を拾い上げていると、彼が最後に置いていった言葉が反芻されて、思わず吹き出してしまう。
「……あれじゃあ、まるで母親みたい」
 おそらく彼は、律儀にも自分の飲み物まで水を選んで来るのだろう。それを思うとこみ上げてくる笑みは、どうにも止められそうになかった。