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魔法が解けるとき

 "助けて"。
 午前0時0分0秒。たった三文字だけのメールを送信して、すぐに携帯電話の電源を落とす。
 カーディガンを羽織って、わたしは玄関をそっと抜け出した。遠くに行くわけでもない、ただ家の外に出る、それだけ。
 今夜はどれくらいで、迎えに来てくれるだろう。


「こんばんは、ダーリン?」
 自転車のライトが辺りを照らし出すまでに、そう時間はかからなかった。
「……」
 たたでさえ目つきがいいとは言えない双眸をしているのに、眉が顰められてその表情は一層険悪に見える。
 彼はどうにもご機嫌斜めらしい。
 それはそうだろう。真夜中にあんな正気とは思えないようなメールを受け取って、それなのに送り主とは連絡を取ることも出来ないのだ。そうして、本来ならば気持ちよく眠っていられるはずの時間に、こんな所までやって来させられる破目になってしまったのだから。
 けれども、わたしがこういう事をするのは今日が初めてというわけではなかった。
 怒るくらいならいっそ来なければいいのに、それでも彼はこうして会いに来てくれる。だからわたしはこんなことを繰り返すのだ。
 彼は無言で自転車を降りた。スタンドを立てる音が、夜の町に響く。
 それから聞こえたのはため息。半分はきっと、わたしのこんな行動に呆れているせいだろう。でも、もう半分は違うことをわたしは知っている。
 ――安堵、だ。
 何処へも行かないで、わたしが大人しく家の前で待っていたから。わたしの身に、"助け"なければいけないようなことが起こっていなかったから。
 気持ちを試すために、心配をかけているわけではないけれど。何もないと分かっていても、彼は必ずここまで走って来てくれる。ちゃんとわたしを確かめに来てくれる。そんなところが、好きで好きで仕方がなかった。
「……で?」
「うん?」
「……今日は何なんだよ」
 そういえば、理由を考えるのを忘れていた。
 真夜中にこんな所まで彼を呼びつけた、その理由。
 眠れなかっただとか星を見たくなっただとか、いつもはそんな馬鹿げたものばかりを選んでいた。この間は、寒いから暖めに来てもらった、なんて言ったんだったろうか。
「退屈だったの」
 ぴく、と眉が動いた。
 苛立ちは、けれどもわたしにぶつけられる事はない。
 だから止められない。子供みたいなわたしを諦めているくせに、それでも見捨てないでくれるから。どうしようもないくらいに呆れ返っているくせに、それでも会いに来てくれるから。
 わたしの我侭にいつだって付き合ってくれる、わたしを決して裏切らない、誰より大好きな王子様。

「――ねえ、」
 "会いたかった"。
 そんな本音は言わない。
「捕まえて?」
 言うが早いか、わたしは彼に背を向けて走り出した。
 追いかけっこは夕暮れの砂浜じゃなくたっていい。真夜中の住宅街の方が、ずっとスリルがあって面白いに決まってる。
 運動部でも何でもないわたしを捕まえるのなんて、彼にとっては造作もないことだろう。けれど、彼ならばきっとわたしの意図を汲んでくれるはずだった。わざと足を緩めて、不思議な高揚感を共有して、このまま近くの公園まで追い続けて。
 焦らして、焦らして、そうして最後に捕まえて、そのまま離さないでくれたならいい。
 ――わたしは、そのつもりだったのに。
「っ?!」
 突然、手首が掴まれた。
 反射的に振り向いた瞬間、思い切り引かれた身体はぐらりと傾いで倒れ込む。硬い胸板に顔からぶつかった。
 こんなことをする人なんて、わたしは知らないはずだ。けれど、今ここにはわたしと彼しかいない。
「なにす、」
 じんと痛む顔を上げる。
 わたしの思い描いていたのはこうじゃない――その非難の言葉は、しかし声にならなかった。不満は一瞬で霧散し、動揺に塗り替えられる。
 彼は、今までに見たことのない顔をしていた。
「柾輝……?」
 鋭く砥がれた視線に射抜かれる。
 それは冷ややかにわたしを見下ろしているのではなくて。むしろ、熱い。単に怒っているというのとは何かが違う、けれど火傷しそうなくらいの熱が、痛いほど真っ直ぐに注がれていた。じりじりと焦がされる音までが聞こえてくる、そんな錯覚に陥るほどに。
 自由を奪われた身体が、手加減のない力に敵うはずもない。
 道路の端、誰の家かも分からない煉瓦の塀に追い詰められて、肩を押さえつけられた。無機質な煉瓦は背中を冷やすのに、彼に触れられている箇所は燃え上がりそう。信じられない、信じたくないこの状況が、抗う勇気を打ち砕いた。
「っねえ、優しくし」
「しねえよ」
「……!」
 ぎりぎりと肩に食い込む指が痛い。
 彼の顔が、声が、恐ろしいくらいに近い。
「……わたしをこんな風に扱っていいと思ってるの?」
 精一杯の強がりは情けなく揺れる。
 ふ、と口許に浮かぶ笑みを、初めてこわいと思った。
「捕まえろ、って言ったのはお前だぜ」
 なんで、どうして。
 こんなはずじゃなかったのに。
「やっ、」
「嫌じゃねえだろ」
 肩口に顔を埋められ、彼の髪が首筋をくすぐった。思わずこぼれ落ちた短い悲鳴は簡単に制される。
 耳元で囁かれた、低い声。
 触れる吐息に、ぞくりと背中が粟立った。
「……あんなイカれたメール寄越さなきゃいられねえくらい、我慢出来なかったんだろ?」
 知らない、こんな彼は知らない。
 わたしの王子様はこんなことなんてしない。ため息を吐きながらも、結局わたしを甘やかして、いつだって何でも叶えてくれる人だったはずなのに。
 現実を信じたくないくせに、それでも聴覚を麻痺させるような声で囁かれる言葉をわたしは否定出来ずにいた。
 怖いくせに、どこかで期待に似た何かがざわめき立っている。
「会いたくて仕方なかったんじゃねえの?」
 核心をつかれて、震えが止まらなくなった。
 低く、追い責める声は麻薬のよう。底意地の悪い言葉が、ひたすらにわたしを抉り立てる。
 今、彼はどんな顔をしているのだろうか。わたしの知らない顔をしているのだろうか。さっきのように笑っているのかもしれないし、もしかしたら苛立っているのかもしれない。考えるほどに、何故だか泣きそうになる。肩越しに見える滲んだ空、流れる雲が月を隠した。

「……俺はそうだけど?」
 息を飲んだ。
 囁き落とされた響きは、殊更にあまい。

 彼が顔を上げた。
 目に映った表情は、笑みでも苛立ちでもなかった。ただ、どこまでも真剣な――それでいて、彼らしくもない余裕のなさを隠そうともしない。
 冷えた夜風が肩を通り抜ける。それすらも熱を奪っていってはくれなかった。掴まれた肩、食い込む指は未だ緩むことがない。きっと彼は、今自分がどれくらいの力を加えているかなんて分かっていないんだろう。
「会いたくなけりゃ、こんな時間にのこのこ出てきてやんねえよ」
 剥き出しの熱情にあてられて、もうどうしたらいいのか分からない。
 とうとうこぼれ落ちた涙は唇に拭われて、わたしはまた小さく空気を飲み込んだ。
「なまえ」
 王子様なんて、最初からいなかった。
 熱っぽい声でわたしの名前を呼ぶのは本当は王子様の皮をかぶったケダモノで、そんなことも見抜けなかった愚かなわたしは言いつけを破った赤ずきんちゃんさながら、狡猾な狼に食べられてしまうのだ。
「……柾輝は、ずるい」
 ――それでも、やっぱり好きで好きでどうしようもない。
 力ない両腕をその背へと廻しながら、くらくらする頭で考える。
 噛みつくように乱暴なキスで呼吸すら奪っていく彼にこうされることを、わたしはどこかで夢見ていたのかもしれなかった。