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偶然と必然の戯れ

 11月23日。
 卓上カレンダーの中のその日付は、休日や祝祭日を表す赤い色で印字されている。
 自他共に認める休日大好き人間のわたしは、本来ならば大喜びでこの休みを満喫しているはずだった。
 「月刊・クラスメイトの誕生日」の今月号は既にくしゃくしゃになってしまっている。
 それは世間で言うところの学級通信で、たとえば今月の行事予定だとか、風邪予防のために手洗いうがいをきちんとしようだとか、誰々さんが何とかコンテストで入賞しましたおめでとうだとか、あとは先生が書いた誤字だらけのコラムのようなものが載っていたりする。けれどもわたしにとってそれらは全部おまけに過ぎなくて、唯一目当てにしているのは、その月に誕生日を迎えるクラスメイトの名前が書かれている欄だけだった。そういうわけで、わたしの中では学級通信イコール「月刊・クラスメイトの誕生日」、という方程式が出来上がっていたのだった。
 けれども、それがもたらしてくれた情報のおかげで、わたしは今月の頭からショックを引きずり続ける破目になってしまっていた。
 ――いつもなら諸手を挙げて喜んでいるはずの祝祭日が、まさか黒川の誕生日だった、なんて。
 プレゼントを渡すだとか、そういう特別な何かをするつもりだったわけじゃない。ただ一言、おめでとうと言えたらいいと思っていただけだった。
 クラスではそれなりに話す方だとはいっても、生憎わたしは彼の携帯の番号もアドレスも知らない。連絡網に載っている番号に電話をするという手もあるのかもしれないけれど、今まで一度もかけたことがないのに、誕生日だからって突然そんなことをするのもちょっとどうかと思う。
 何より、直接伝えたいと思っていた。
 もしそれが叶っていたとして、わたしの一言なんて黒川にとっては何でもないのかもしれないけれど、でも。
 同じクラスになって、彼と出会って、それから少し仲良くなって。彼がそこにいてくれることに、わたしは本当に感謝しているんだ。
 黒川がいてくれるから、毎日が前よりもずっと楽しいって思えるんだから。
 勝手な一方通行だとしても、わたしは黒川のことが好きだから。

 結局何も出来ずにいるうちに、この日の時刻ももう夕方になろうとしていた。
 来年も、11月23日はめでたく祝日だ。
 これはもう、休みの日でも気軽に会えるくらいの間柄になるしかない、ということだろうか。あるいは、勇気を出して電話で呼び出してみる、とか。でも、それは何かが違う気がする。きっと今頃は、仲のいいチームメイトとサッカーをしたり遊んだりしているんだろうし。
 とにかく、残念だけれど今年はもう仕方がないのだ。
 考えすぎたせいか、なんだかお腹が空いてきた。夕食まではまだ時間がありそうだ。小腹を満たそうと、わたしはニ階の部屋を出て階下へと降りていった。
「お、丁度いいところに来たな!」
 そんな声が掛かったのは、リビングの扉を開けたその瞬間。
 楽しそうなその主は、ソファーに寝っ転がってテレビを観ていた父親だった。……嫌な予感がする。丁度いいところに来た、なんて言われて、面倒事が降りかからないわけがない。
「悪いんだけど、ちょっとビール買って来てくれるか?」
 ほら、やっぱり。
 ロクなことじゃないと思ってはいたけれど、まさかビールを買ってこいだなんて。わたしが中学生だということを分かっているんだろうか、この父親は。
「ほら、どうせおまえは勉強なんかしてないんだろ? だからヒマだろ? というわけで、ビールと柿ピーよろしく!」
 何が「というわけで」だ。何が「よろしく」だ。まあ、確かに勉強をしていないのは事実だけれど。さり気なくおつまみを追加してくるあたりが、なんともイライラさせてくれる。
「イヤよそんなの、めんどくさいもの」
「こら、おまえ今日が何の日だと思ってんだ、ん?」
 何の日って、黒川の誕生日だよお父さん。
 もちろんそんなことを口にするわけにもいかないから、わたしは黙ったまま、努めて嫌そうな表情を作ってみた。
 何故かは分からないけれど、わたしくらいの年齢になると、父親を毛嫌いする時期を迎えてしまう女の子が多いらしい。だから父親の方はなんとかそれを回避しようと、頑張って娘の機嫌を取ろうとするんだとか――どこかで聞いた、そんな話を聞いたのを思い出しての試みだった。
「勤労感謝だぞ、勤・労・感・謝! 毎日汗水垂らしておまえたちのために働いてる父さんの頼みを聞いてこそ、面倒くさいってことはないだろうが!」
 ……が、普段から特に邪険にしているわけでもないせいか、効き目は全くなかったのだった。
 まだお酒を飲んでもいないのに、まるですっかり出来あがった人みたいだ。
「ああもう、分かったってば! 行けばいいんでしょ行けば!」


 ***


「お父さんのバカ……!」
 いくら勤労感謝の日だからといって、非勤労者を奴隷のように行使していい決まりはないと思う。
 どうして六缶入りパックで買ってこいなんて言い出したんだろう。まさか一気に全部飲む気なんだろうか。明日からはまた仕事だって言うのに。ぶつぶつ文句を言いながら、わたしは家への道をのろのろと歩いていた。ビニール袋が手のひらに食い込んで、痛いし重い。
 コンビニの店員さんが、人の良さそうなお姉さんだったことはラッキーだった。お遣いなんです、と言うと、明らかな未成年であるわたしにもそれを買わせてくれたから良かったものの、もしもそうじゃなかったら、買わせてくれるお店に巡り会うまで歩き回らなければいけなかったのかもしれない。そう考えると頭が痛くなる。
 せめてもの腹いせに、持たされたお金の余りで自分のためにジュースを買ってはみたけれど、どうにも心は晴れない。それどころか余計に荷物が重くなって、失敗したと思っているような始末だった。
 こんな目には遭わされるし、黒川の誕生日は祝えないし。
 せめてわたしが報われない分、彼がめいっぱい幸せな誕生日を過ごしていることを願っておくことにしよう。
 明日になれば、また学校で会える。「昨日はおめでとう」ではだいぶ価値が下がる気もするけれど、それでも言わないよりはずっといいんだろうし。
 そうして自分を慰めながら、重い袋の持ち手を握り直した、その時だった。
「……苗字?」
 背後から聞こえてきた声に、耳を疑う。
 今のが幻聴でなかったのなら、わたしの名前を呼んだのは間違いなく黒川の声だった。
 だけど、まさか。
 でもわたしが彼の声を聞き間違えるはずなんてない。
「……うそ、」
 振り向いたその向こうには、本当に黒川の姿があった。
 ほんの数メートル先、いつものようにエナメルのショルダーバッグを肩に掛けて立っている。
 目が合った、と思った瞬間に、彼の口元が緩んだのが分かった。そうして、呆気に取られたままのわたしの方へ、つかつかと歩いてくる。
「奇跡……!?」
「は?」
 心の中で言ったつもりが、驚きのあまり思わず口に出してしまっていたらしい。怪訝な顔に、慌てて言い訳をする。
「いや、その、こっちの話だから気にしないで! そ、それより、こんな所で会うなんて珍しいね?」
 どうにも不自然な、わざとらしい言い回しになってしまった。けれど、この界隈の住人ではないはずの彼と、ここで会うのが珍しいということには変わりない。さっき声が聞こえた時だって、まさかと思ったくらいだったし。
「ああ、さっきまで翼んとこに邪魔してたんだよ。翼ん家、こっちの方だから」
 うっかり口走った言葉の件は、もう流してくれたらしい。
 後輩を家に呼んでお祝いするなんて、椎名先輩もいい人なんだなあと思う。まあ、わたしが見た限りでは、うちのサッカー部は先輩後輩もあんまり関係がなくて、みんなで仲が良いような感じもするのだけれど。
「苗字は? こんなとこで何してんだ?」
「ん、わたしはただのお遣い」
 お父さんに頼まれちゃったんだよね、と答えると、右手に提げた袋に黒川の視線が落とされた。――と思ったら、
「ちょっ、黒川……!?」
 指に食い込んでいた重力がふっと消えて、ビニールの袋は左手へと移っていた。わたしの左手ではなくて、彼の。
「さっきから重そうに見えてたんだよ」
「そんな、別に大したことないから!」
「いや、実際女には重いだろこれ。……なあ、このまま突っ立ってんのもアレだしそろそろ行かねえ?」
 せっかく会ったんだし、家まで送ってやっから。そう言って黒川が歩き出そうとするものだから、わたしは再び大慌てだった。
「待って、それくらい自分で持てるよ……!」
「いいから」
 よくない。その思いのままに、攫われた袋に手を伸ばした。
 彼の気遣いにうっとりしながら素敵だなんだと思っている場合じゃないのだ。だって、今日が誕生日の人にそんなことなんかさせられない。むしろわたしの方こそが、彼のバッグを担いで家まで持って行くべき立場にあるんじゃないだろうか。効率面から言えば、ちょっと問題だけれど……って、今はそういう話じゃなくって。
 わたしが手を離さなければ彼もそうしないので、コンビニ袋を道端で取り合うという傍から見れば妙な図が出来あがってしまっていた。
「ほんとに、こんな事してくれなくていいって!」
「別に遠慮するようなことでもねえだろ?」
「でも駄目なんだってば!」
「何でそこまで頑固なんだよ」
「だって今日は黒川の誕生日だし!!」

 次に返ってくるはずの言葉がぴたりと止んで、はっとした。
 黒川が驚いたように目を丸くしている。自分が何を言ったのかに気付いた瞬間に、頭を抱えたくなった。
 いくらそのことばっかり考えていたからと言って、これはないんじゃないだろうか。
 今まで黒川と誕生日の話をしたことなんてないというのに、いきなりそんなことを言われてしまってはさすがに驚くだろう。「そういえば、さっき家で学級通信見てた時に気付いたんだけど、黒川って今日誕生日だったんだね! おめでとう!」、とそんな風に自然を装って告げようと考えていたのが、これで全部台無しになってしまった。もちろん、彼に会えただけでもびっくりするくらいの僥倖だと思うべきだし、実際にそう思ってはいるのだけれど。こういうところで抜けているあたりは、我ながらなんだかなあ、と感じてしまうのだった。
「知ってたんだな」
「……うん、その、学級通信で見て」
「学級通信?」
「毎月載ってるでしょ? プリントの右下の方に、誕生日の人の名前と日付」
「……あー、あったかも。お前そんなもん律儀に読んでんの?」
「うん、まあ誕生日のとこだけなんだけどね」
「変なヤツ」
 そう言いながら、黒川は笑った。
 目を細めて、口角を緩く上げて、わたしの好きな表情をして。
 何も言い返せなくなってしまったのは、きっとそのせいだ。認めるのは気恥ずかしいけれど、見とれてしまったとしか言い様がなかった。
 惚けているうちに、彼はわたしからもう一度袋を奪って歩き出す。数歩歩いて、それから振り返って、彼の笑みはまだ崩れないままだった。
「早く来いよ。おじさん待ってんじゃねえの、コレ」
 お父さんに頼まれただなんて、そんな何でもない一言だって黒川はちゃんと聞いていてくれたんだ。
 そう思うだけで、どうしようもなく嬉しさが込み上げてくる。
 再び前を向いて歩き出した背中を追うように足を速めて、わたしは彼の横に並んだ。
「……あのさ、」
「ん?」
「誕生日、おめでとう」
「おう、サンキュ」
「……それと、ありがとう」
「……? ああ、これか? いいって、気にすんな」
 それもあるけれど、でもそれだけじゃない。
 だけどそっちは、まだ分かってくれなくていい。
 ――誕生日おめでとう。
 ――こんなに幸せをくれてありがとう。
 いつか想いを伝えられる日が来ることを願いながら、夕暮れの道、わたしは黒川の隣を歩くのだった。

 最初は面倒だと思っていたけれど、こうして彼に会うことが出来たのは父のお遣いのおかげでもあったのかもしれない。
 家に着いたらビールと柿ピーを渡して、それから感謝ついでに、肩でも叩いてあげようか。